2014年9月21日 末竹十大牧師
「切り捨てる」
マタイによる福音書18章1節〜14節
「わたしへと信じるこれらの小さき者たちのひとりを躓かせる者は、彼に役に立つ、彼の首のまわりにロバが引く挽き臼をかけられて、海の沖に沈められることが。」とイエスは言う。「役に立つ」ということは、「まし」ということではない。有益であるという意味である。「まし」とはその方がまだ良いという意味だから、有益とは程度が違う。イエスは、有益だと言うのだ。このような言がイエスの口から出てくるのはどうしてなのか。
小さき者について語られている言を集めて、このように配置したのはマタイである。天の国に入るのは子どものような者たちだという言と迷った羊を見出す神のたとえの間に、躓きについての言が入っている。マタイはどうして、このような配置にしたのか。躓きの問題では、他者を躓かせることと、自らが躓くこととの問題が扱われている。躓きは他者に対して行われることだけではなく、自分自身を躓かせることも起こるとイエスは言うのだ。その場合、自分を躓かせる手や足を切り捨てることが勧められる。いったい、自分が自分を躓かせるとはどういうことであろうか。手や足がわたしを躓かせることがあるのだろうか。
もちろん、足が弱って、躓くことはある。これはここで言われている躓きとは違う。躓きは、神から引き離す出来事である。神を信頼できなくしてしまうのが躓きなのである。それゆえに、他者を躓かせることは、他者に災いを与えるのだから、嘆かわしいことだとイエスは言う。「不幸だ」と訳されているウーアイというギリシャ語は嘆きのうめき、嘆息である。躓きを与える存在を嘆いているイエスの言である。しかも、海の沖に沈められることがその人に役に立つのだとイエスは言う。どうしてなのか。そのような人が生きていること自体が嘆きであるのは理解できる。しかし、海に沈められて死ぬことがその人に役に立つとはどういう役に立つのだろうか。世間の役に立つというのであれば、理解できそうである。しかし、その人に役に立つと言われているのだ。これはどういうことであろう。
確かに、他者を躓かせる存在は、故意に躓きを与えるならば、嘆かわしい存在である。しかし、躓きが来ることは「強制である」と言われている。この言も理解できない。「避けられない」というよりも、強制的に起こるということである。絶対に起こるということである。絶対に起こることだから、仕方ないではないかと開き直る躓かせる存在に対して、海の沖に沈められることが有益だとイエスは言うのだ。何故なら、強制的に起こるとしても、自分が行ったことの責任を回避できないからである。責任回避が不可能なのだから、躓きを起こしてしまう存在は、分かっていて責任を回避するがゆえに嘆かわしい存在である。そのような存在が、海の沖に沈められることで、責任を負うことはその人に役に立つと言われるのは当然である。何故なら、死をもって責任を負うことが最終的な裁きを回避できるからであろう。もちろん、自殺せよということではない。自殺は責任回避である。裁判を受けて、海の沖に沈められることが責任を負うことだからである。
では、自らの手足が躓かせる自分とはいったい何だろうか。自分が自分を神から引き離すのか。神に信頼させないということであれば、一番良く動く手足の力が、神から引き離す力になるということであろうか。わたしの手、わたしの足が、わたしを傲慢にして、神などいなくとも良いとまで思わせることになるのだろうか。そうであれば、手足はわたしを神から引き離す力となってしまう。そのような自分を知るのは、どのようなときなのか。傲慢になった自分をわたしは知らないのではないか。傲慢になっているなどとは誰も思わない。自分は正しいことをしていると思う。自分が間違っているとは誰も思わないのだ。思い上がっているとも思わない。そうであれば、自分が傲慢だと気づくのは、神の前に立つときしかない。最後の審判のとき、そのときには、命へと入ることを選ぶであろう。だからこそ、手足を切り捨てることも起こるということである。
しかし、実際に手足を切り捨てるのだろうか。命へと入ることを選ぶということは、手足があっても、選ぶことができるのではないか。むしろ、気づかない存在こそが、手足を切り捨てる必要があるのではないのか。しかし、気づかない存在は手足を切り捨てることを自分ですることはない。平然と何事もなかったかのように生きているものである。その人は、永遠の火に投げ込まれるときに、やっと気づくのである。
そうであれば、気づいている存在こそが、手足を切り捨てている存在であると言える。自らの傲慢に気づいている存在は手足を切り捨てた存在である。この世にあって、永遠の火を経験している存在である。腹を痛め、苦しみ、嘆き、呻吟している存在は、手足を切り捨てている存在である。そして、神に信頼しようとしている存在である。神に信頼しない者が、手足をもって、自分自身を高ぶらせる存在である。わたしの手足は素晴らしいと。
しかし、この世では躓きは強制であるから、どうしても起こる。どのように避けようとしても起こる。如何なる人間であろうとも起こる。そこから脱け出すには、手足を切り捨てていることが必要なのだとイエスは言うのではないのか。自らの傲慢さを切り捨てていることが必要なのだと。
では、そのような存在が躓かせる小さき存在はどうなるのかと言えば、迷子の羊のように神が見つけ出して救うのだとイエスは言うのである。小さき存在は、天の国に入る存在だが、躓かせる傲慢な存在に蹂躙され、神から離れてしまうことにもなるのだ。何故なら、子どものような存在は力がないからである。子どものような存在はまっすぐに神に向かうからである。しかし、躓かせる存在は、お前には資格がないと言ってしまうのである。それでも、神はそのような小さき存在を見つけ出して、救い給うのだとイエスは言うのだ。
我々自身も、自らの罪深さ、傲慢さに気づかなければならない。気づいているならば、最終的に片手片足になっても、命へと入ることができるであろう。気づいていないならば、永遠の火に投げ込まれるのだ。このイエスの戒めの言を心して聞く者でありたい。あなたは躓きを与える存在なのだと知らなければならない。自分の力、自分の義しさによって、躓きを与える存在なのだ。他者を神から引き離し、自らも神から離れる存在なのだ。そのような者であるわたしを知ることこそが、手足を切り捨てることである。力なき存在となって、神の前にひれ伏すのだ。罪深いわたしをお赦しくださいと。力なき存在とならなければ、我々は神の前にひれ伏すことはない。
我々が如何に罪深いかは、本当は我々自身が知っているはずである。しかし、サタンは我々を陥れる。執拗に他者を責めさせる。徹底的に懲らしめようとさせる。こうして、我々はサタンの力に支配されるのだ。ローマの信徒への手紙にある如く、復讐しようとする心が我々を支配し、サタンの支配に誘い込む。こうして、我々は躓かなくても良い人を躓かせる存在となる。ここから脱け出すには、どうしたら良いのか。ただ、自分自身の傲慢さを認めるだけなのだが、それができない自分を神の言に従わせることである。神の言を聞き続けることである。神の言に打ちのめされることである。こうしてこそ、我々は自分で復讐するのではなく、神の怒りに委ねるのだ。自分自身も他者も。
そのために、キリストはご自身の体と血を我々に与え給う。ご自身が神との和解の献げ物となってくださったキリストの体と血を心して受けよう。あなたの罪、あなたの傲慢さをすべて引き受けて、十字架に死んでくださったお方の体と血をいただこう。あなたが見失っていた神を見出させるお方に従って行こう。あなたが命へと入るようにと十字架を引き受けてくださったお方に生きていただこう、あなた自身のうちに。あなた自身の傲慢さのうちに。あなた自身の罪のうちに。キリストはそのために、今日あなたにご自身をくださるのだから。子どものように、まっすぐに受け取ろう、神の愛を、傲慢さを切り捨てて。
祈ります。
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