2016年9月18日(聖霊降臨後第18主日)
ルカによる福音書16章1節~13節
「人間たちにおいて高められるものは、忌み嫌われる、神の前で。」と15節で語られているが、これが今日の箇所の意味である。人間たちにおいて忌み嫌われる不義なる管理人であり、不義なる信仰者である。10節で「小さきことにおいて、信仰深い者は、大きなことにおいて信仰深い」と言われているが、忠実とは何に忠実であるのかが問われなければならない。信仰深いという言葉が忠実さ、信頼に足ることを表すピストスというギリシア語である。忠実で信頼に足る者とは、神の前で信仰ピスティスをもって生きている者である。しかし、この不義なる管理人が神の前で生きていたのだろうか。
彼が主人から「もはや管理することは不可能である」と言われたとき、彼は如何なる不義を働いていたのか。それについては聖書は何も語っていない。むしろ富こそ不義であると語るのが聖書である。不義がなければ富を蓄えることはできないというのが本来ユダヤの考え方である。それに対して、不義を糾弾して、殺される人もいたのだ。富は権力であり、権力を行使することで、富は増加する。この権力がどこから来たものであるかと言えば、神である。神がすべての権力、権威の源泉である。従って、この世で権力を行使する場合、神に仕える者である必要があるが、権力を得た者は神に仕えることはない。むしろ、人々を自分に仕えさせるものである。そして、自分の富を蓄える。従って、富を持っているということは神が与えた権力を私腹のために使っていることになるのだ。
不義なる管理人は、当初、富の保有者である主人の許で自分も主人の富に与っていた。しかし、田川健三によれば、彼は搾取されている人たちのために、ここで行っていたような証文の書き換えをしていたのではないかと言われている。それは確かではない。ただ、主人からすれば、自分の富をまき散らしているがゆえに、不義なる管理人として解雇の憂き目に遭ったのである。富からかすめ取っているとか、富の所有者から他者に還元しているということは、搾取されている者たちからは喜ばれる。それゆえに、不義なる管理人は主人に対しては不義であるが、搾取されている人たちに対しては不義ではない。むしろ、彼らの友である。しかも、証書の書き換えは主人の財産を減らしてはいないのだから、賢いと言われているのだ。
この管理人は賢いと主イエスも言うのである。どうしてなのか。誰にも損をさせず、誰にも訴えられず、誰にも正しいことを行ったからである。彼はどこからそのような知恵を与えられたのか。それは彼が何もなくなったからである。管理人ではなくなるということは、ただの人なのである。その自分を受け入れたとき、彼は言う。「わたしは知っている、わたしが何を行うかを。」と。そうである。彼は知っている。何もない者として、何を行うことが信仰深いことであるかを。何が神の前に生きることであるかを。そして、証書の書き換えを行った。
不義なることをして富を蓄えている主人。その人たちからすれば管理人は不義である。信頼できない、不信仰者である。しかし、搾取されている者からすれば、神の真実に忠実な信仰深い者である。どちらが正しい認識なのか。立場によって、正反対の判断が生じるのである。
主人の価値観から言えば、管理人は不義である。しかし、この世の子らと同じように、賢く生きている。何故なら、主人にもほめられるからである。主人が文句を言えないようにしているからである。あるいは、この主人という言葉は、主イエスを指しているかも知れない。「主は、この不義なる管理人の賢い行いをほめた。」と。どうなのかは判断しにくいが、イエスがこのたとえを語っているということは、批判的に語っているのではなく、この管理人をほめていると解するべきであろう。我々には分からないけれど、イエスは管理人をほめているのだ。それゆえに、このたとえを良い方に解釈しようと苦労することになるのだ。むしろ、この世では不義であることが賢いことである。義であることが賢くないことである。この管理人は賢いと言われながら、賢くないのではないか。何故なら、何をやっていたかは分からないが、主人から管理人の職を奪われるからである。結局、何かがばれているのである。ばれても訴えられないようなことはしていなかったのだ。それは、自分のためにしていたからである。ところが、解雇されてから彼がしたことは自分のためと言いながら、何の保証もないことである。家に迎え入れてくれるかどうかは、相手に委ねられているのだ。そうであれば、管理人は自分の利益を享受していないのだ。将来の保証なきことをしているだけである。それでも、将来の保証を思うと、今なすべきことは搾取されている人を助けることだと判断した。それを主イエスは賢いと語っているのである。
我々はすぐに利益になることを求めるが、それはすぐに消えていく。しかし、将来保証がないとしても小さな人たちに仕えること、搾取されている人の友になること、それは正しいのだ。神の前で信仰深きことなのだ。小さき人たちは、自分の家に迎えてくれるとしても、一食供してくれるくらいであろうか。そうであれば、大したことではない。それでも、そのような人をたくさん作っておくならば、何食かはまかなえるかも知れない。それはそれだけなのだ。それでも、管理人は将来の何食かのためとは言え、搾取されている人の側に立った。それが神の前に立つことであり、信仰深いことなのである。
管理人は、不義である。人のものを不正に質したのだから。しかし、それによって救われる人がいる。それによって、生きる道を見いだせる人がいる。それがいのちを守ることである。富が不義であるとしても、それを正しく使うことはできるということである。信仰深く考えるならばであるが。そのようなところに立たされたのは、管理人が何もない者とされたからである。何の力もないことを認めたからである。恥ずかしいことを認めたからである。それゆえに、何もないところに立たされることは神の前に立たされること、信仰深く生きる契機なのである。
イエスのこの話をあざ笑ったファリサイ派の人たちに対して、イエスが言うように、「人間たちにおいて高められるものは、忌み嫌われる、神の前で。」ということが真実である。イエスはこの管理人をほめたが、それはご自身がそのようであるからだと言える。
ファリサイ派の人たちが持っているもの、努力して獲得したものを、イエスは罪人たちに分配していた。神のものとして分配していた。それゆえに、ファリサイ派からはイエスは不義である。しかし、分配された罪人たちからはイエスは信仰深い、神の前に生きる人だと見られるのだ。これがイエスの話が語っているイエスご自身の姿である。
我々は、イエスの不義によって救われた者である。イエスの不義の結果は十字架であった。義の所有者であるファリサイ派の人たちから不当にも奪ったと思われた神の義を、罪人たちに供給していたからである。イエスこそ、不義なる信仰者の典型である。不義なる管理人はイエスそのものである。管理を任せる訳にいかないと言うのは、ファリサイ派であり、義を供給されたのはファリサイ派から搾取されていた罪人たちである。このたとえを通して、イエスはご自身の姿を弟子たちに伝えているのだ。わたしは不義なる信仰者である。しかし、神の前に生きる信仰者である。神は小さき者を顧みるお方だからであると。
我々が今日共にいただく聖餐は、このイエスの不義を通して与えられた神の義である。神がすべての者に与えたいと願っておられる神の義である。働きのない者に与える義である。イエスの十字架は神の義を価なく与える不義なる存在。しかし、神の前に信仰深く、信頼に足る存在。このお方の体と血に与って、我々も不義なる信仰者として生きていくのだ。この世にあっては不義と言われようとも、神の前では信仰深く生きていこう。キリストはあなたの内で神の義として生きて働いてくださる。感謝して、いただこう、不義なる神の義を。あなたが神の前で信仰深く生きるために。
祈ります。