「生の質の変容」

2016年11月13日(聖霊降臨後第26主日)

ルカによる福音書20章27節~40節

 

「何故なら、すべては神に生きているから。」とイエスは最後に言う。神に生きるとは、神によって生きることであり、神に向かって生きることである。神が生かし給う生こそが生のすべてであり、神に向かって生きることがすべての生の方向である。しかし、人間は人間に向かって生きている。それは、人間の自然的理性に従って生きることであり、自然的理性の方向に向かって生きることである。それゆえに、死後の生を否定するサドカイ派は、この世の人間的理性によって死後の生を考える。理性によっては、死後の生、復活の生を認識することはできない。何故なら、この世の理性は人間によって生きることしか理解できないからである。

死というものがこの世の生との分離であり、この世の生を離れることであるならば、我々は死によってこの世の理性の世界を離れるのである。これは、使徒パウロがローマの信徒への手紙7章2節で語っている通りである。パウロはこう語っている。「何故なら、結婚している女は、生きている男に縛られている、律法によって。しかしもし、男が死ねば、彼女は無効化されてしまっている、男の律法から。」と。律法が規定している結婚は、この世で生きている間のものであり、男の死によって、男の律法からの結婚は無効になるのである。さらに、パウロはローマの信徒への手紙6章7節でこうも語っている。「何故なら、死んだ者は、義とされてしまっている、罪から」と。死を通して、肉的な人間の罪は働かなくされ、義とされてしまっているとパウロは言う。これは、死によって罪の支配が働かなくなったことを意味している。それゆえに、死という出来事は、この世の生、この世の理性、この世の価値からの分離なのである。

サドカイ派は、死における生の変容を理解していない。いや、彼らは死後の世界を否定しているのだから、この世しかないのである。この世しかないのだから、彼らが考えることはこの世の理性に従った判断でしかない。死後の世界があるとしてもこの世の延長として考えてしまう。我々も同じように、死後の世界を考えてしまう。復活さえも、この世の生の延長と考えて、死んだ者がもう一度生き返ることだと考えるのである。それゆえに、死を通しても、その人の生は変わりないことになる。復活さえも、新しいいのちに生きることではなくなるのである。

サドカイ派が例に上げているレビラト婚は、この世に種を残すことを前提としての結婚である。兄と同種の種を持つ弟が、兄の代わりに兄嫁と結婚して、兄の種を残すという結婚である。これは、同族を保持するための結婚であり、この世においてしか機能しない。死後の復活のときには、結婚は必要ない。何故なら、この世において種を残すということは、この世の身体的種でしかないからである。復活後には、この世の肉的身体は霊的身体に変容すると、パウロも語っている通りである。それゆえに、復活後のイエスが、閉鎖された家の中に現れることも可能だったのである。肉的身体から霊的身体への変容は、身体的変容だけではなく、我々の存在の在り方自体の変容である。生の質が変容するのである。

この世にあって、子孫を残し、家族を保持するという生は、人間に生きていることなのである。それは、自らの種、自らの家族、自らの親族を保持するという閉鎖された世界を作ることを目的としているからである。それゆえに、我々人間は罪を犯す。何故なら、自己保存的にしか生きていないからである。自己を保存するために、自己を守るために、他者を犠牲にしても、それを遂行するからである。それは、自分が守らなければならないと考える生である。しかし、復活後の生は、神ご自身が生かし給う生である。人間に生きていたところから解放されて、神に生きるようになることが、復活なのである。それゆえに、そこでは自分の種を保持するための結婚は必要なくなる。

イエスは、この生の質の変容を、「その世を享受するに相応しい者たち」と語っている。その人たちは「死者からの復活を享受するに相応しい者たち」でもあると。ここで「享受するに相応しい者」と言われていることは重要である。「享受する」とは喜び受け取ることであるが、それは向こうからやって来たものを受け取ることである。テュンハノーというこの語は、「偶然出くわす」、「ぶつかる」という意味の言葉である。それは、こちら側が出会おうとして出会えるものではない。いつやってくるかも分からない出来事に出くわすことである。出くわしたときに、素直に受け取って喜ぶ者と、見過ごしてしまう者とに分かれる。しかし、すべての者が死を迎えるとすれば、すべての者が出くわすのである。出くわしたとき、受け取るか否かが分かれる。受け取った者が「享受するに相応しい者」と言われる。それは選びである。向こう側からの働きかけを素直に受け取るとき、選ばれているのである。反対に、選ばれるための資格を云々して、向こう側からの働きかけをこちらで選ぶとき、選ばれていないのである。選ばれることを受け取ることで選ばれている。選ばれることを選ぶとき選ばれていない。

イエスが例に上げているアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とは、来たり給うた神を「わたしの神」として受け取ったことを表している。それは、種の継続によって受け継がれた信仰ではなく、一人ひとりの受け取りにおいて、神との関係を受け取ったことを語っているのである。

復活とは、一人ひとりの生の質の変容であって、種によって受け継がれるものではない。神に生きるということは、神によって生きることであり、神に向かって生きることである。神に向かって生きることが可能なのは、神が来たり給うたとき、素直に受けるときである。自分で選ばないことである。神の側からの働きによって、生の質を変容させられる者は、生の質を変容しようとはしない。このように生きることが生の質の変容なのだとも考えない。ただ、神が来たり給うことを受け取る。そのとき、我々は神に生きている。

神に生きるということは、死後のことだけではなく、この世の生においても可能なことである。死に至るまでのこの世にあって神に生きているならば、死によってこの世から分離された後も、神に生きるであろう。死が向こうから来たりて、我々をこの世の生から分離するときになって、素直に来たり給う神を受け取ることができるであろうか。この世にあっても、神に生きている者が受けるのである。その意味では、生の質の変容である復活は、この世にあっても生き始められていると言える。

我々キリスト者は、この生の質の変容をこの世にあって生き始めた者たちである。しかし、我々は完全には、この変容を生きることができない。何故なら、未だ罪の肉に縛られているからである。それでもなお、信仰を与えられて、生の質の変容を生き始めることが可能とされた者がキリスト者である。我々キリスト者の生は、この世にあって、あの世を生きるようなものである。この世にある間は、罪に縛られているが、すでに解放されて、義とされている生を生きている。完全に義とされる死を迎える前に義とされていることを受け取って、生きている。これが我々キリスト者なのである。

我々が義とされることは、あくまで神の側の働きなのであり、我々人間が獲得することができないものである。その神の働きをすでに受け取っている者として、この世で生きる者のことを、マルティン・ルターは義人にして罪人と語ったのである。神によって、神に向かっている生きているが、未だ人間によって、人間に向かって生きている者でもあると。

キリストは、我々が完全に神によって神に向かって生きるようになるために、十字架を負ってくださった。我々が死を恐れて、罪が働いてしまわないように、十字架を負ってくださった。あの十字架において、我々は死を恐れることはない。むしろ、神との完全なる従順の関係に入れられるときとして、喜んで死に向き合うのである。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に生きるとパウロが語る通り、我々にはキリストの十字架がある。真実に神に生きてくださったお方を見上げながら、歩み続けよう。

祈ります。

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