「自由のロゴス」

2020年10月25日(宗教改革主日)
ヨハネによる福音書8章31節~36節

「あなたがたは真理を認識するであろう。そして、真理は自由にするであろう、あなたがたを」とイエスは言う。この言葉は、後にこう言い換えられている。「もし、息子があなたがたを自由にするならば、本当に、自由人としてあなたがたは存在するであろう」と。ということは、「息子」と「真理」とが同定されているのである。イエスは父なる神の独り息子としてこう語っているのだから、イエスが「真理」なのである。それゆえに「わたしのロゴスのうちにあなたがたが留まるならば、真実にわたしの弟子たちとしてあなたがたは存在している」とおっしゃっていたのである。

イエスのロゴスのうちに留まるということは、どういうことであろうか。イエスのロゴスのうちで生活することである。キリスト教信仰という出来事は、イエスのロゴスのうちに留まることなのである。イエスのロゴスを受け入れ、ロゴスに照らされて、真実の自分自身を受け入れるとき、我々は「真理」であるイエスによって「自由人として存在する」者とされる。これが我々に自由を与える「自由のロゴス」である。

しかし、この「自由」は自分が獲得することができるようなものではない。「息子」が自由にする必要がある。「真理」が自由にする必要があるとイエスは言うのである。従って、この「自由」は獲得された「自由」ではなく、与えられた「自由」である。与えられた「自由」を受け取ることが「自由人として存在する」ようにするのである。この受動的在り方が「真理」と言われているのである。

イエスのロゴスのうちに「留まる」ということも受動的である。イエスのロゴスがなければ「留まる」ことができないのだ。「真理」は受動的に受け取るものだということである。「真理」アレーテイアというギリシア語が「隠れなくあること」を意味しているのだから、「真理の認識」は隠れなくあることの認識。この認識は、イエスがロゴスを持って語ってくださらない限り、我々には認識できないものである。我々は自分が「罪人」であると認識するために、自分で考えて認識に至ったのではない。我々は罪人だなどと考えてもいなかった。しかし、イエスの言葉を聞いて、自分を照らされたときに、認識した。照らされたとき、イエスの言葉を受け入れる者と受け入れない者とに分けられる。そして、受け入れた者は罪を認め、罪から解放されている。受け入れない者は罪を認めないゆえに、罪に留まる。ということは、我々が罪を認識することが「真理」と言われていることになる。また、「真理」と「自由」はロゴスに規定されていることにもなる。

我々が考える「自由」は何者にも束縛されない「自由」である。そのような「自由」は幻想である。我々は何かによって規定され、縛られている。これを認識することが「真理」を認識することである。それゆえに、「真理」が我々を「自由」にするのは、我々が何に縛られているのかを認識したときである。そのとき、我々が縛られているものから解放されるであろう。「真理の認識」はこのようにして我々を自由にするのである。

では、我々が考える幻想としての「自由」は本当にないのだろうか。我々がその幻想に縛られている限り「自由」はない。この幻想を与えているものが何であるかを認識したとき、幻想からも「自由」になるであろう。縛られないということは、縛っているものを認識することだからである。それが「真理の認識」なのである。だとすれば、我々が抱く幻想は罪なのであろうか。それが自分のうちから出てきた願望である限り、罪である。

我々は自分の思い、願望に縛られている。自由でありたいという願望に縛られて、規定されて、こうでなければ本当に自由ではないと思い込むことによって、縛られている。そこから解放されるには、自分自身から出てきた願望、思いを良く見る必要がある。我々が罪人であるならば、我々の願望も思いも罪である。我々の意志も罪の意志である。ルターがアウグスティヌスの言葉を借りて言ったように「罪の奴隷的な意志」が我々の意志なのである。

我々の願望は、我々をして、罪を犯すように働く。神から受けるべきものを自分が獲得できると思い上がらせるのが、我々の願望である。我々が神の被造物であるにも関わらず、我々自身に力があると思い上がらせるのが、我々の願望である。あたかも、人のために願っていると言いくるめて、自分の願望を実現しようとすることもある。それが偽善であることを認めようとはしない。これを認めることが「真理」である。

我々は、さまざまなものに身を隠して、自分の本心を繕う。自分は良いことをしているのだと自分にも他者にも嘘をつく。自分を誤魔化して、自分は義しいと言い募る。それが偽善であることは、本当は分かっているのに、主張する。そうしているうちに、そこから抜け出せなくなっていく。しかし、このような自分自身を認めたとき、我々は自由である。「真理」によって自由である。罪人であることを認めたとき自由である。罪の奴隷であることを認めたとき自由人として存在することができる。

しかし、罪の自覚は自覚だけで終わることはない。開き直りではないからである。真実に自らの罪を認めた存在は、罪から離れようとする。そして、光の方に来るのである。真実の自分自身が光に照らされるように、光の方に来る。そのとき、光に包まれているがゆえに、罪人であるとしても光となっている。この光がイエス・キリストであり、ロゴスである。

罪を認めた者は光の中に留まる。ロゴスのうちに留まる。留まることによって、常に自分を顧みる。それゆえに、罪から解放されている。これがイエスがおっしゃっていることである。「自由のロゴス」は、我々がロゴスに従うように働いてくださる。ロゴスに従うとは、神の意志に従うことである。神の意志を実行できるということではない。神の意志を実行できない自分自身が神の意志の中に留まるようにロゴスは働いてくださる。

善の中に留まるように自分を強いることは、自分が悪であることを認識している者である。その人は、ロゴスの中に留まらなければ、自分は悪に流されていくことを知っている。それゆえに、ロゴスを聴き続ける。聴き続けることによって、ロゴスと一つになっていく。いや、ロゴスがその人のうちに住むようになっていく。ロゴスとの一体化が起こる。それが「信仰」の歩みである。

我々がロゴスに出会って、照らされた最初のときから日に日にロゴスに支配されてきたのだ。ロゴスに惹きつけられ、ロゴスに包まれ、ロゴスなしでは生きていけないほどになっていくならば、我々はロゴスの自由を生きる者とされている。ロゴスが出会ってくださったあなたは、ロゴスのものである。イエスのロゴスがあなたのうちに、あなたの上に、あなたと共に、生きてくださる。それゆえに、あなたはロゴスから離れることはできない。ロゴスに守られ、自分自身の罪から解放される。これがイエスが語っておられることである。我々がイエスの言葉に聴き続けるならば、与えられた「自由」を生きる者とされていくであろう。

ルターの宗教改革の始まりとなった「九十五箇条の提題」はロゴスのうちに留まったルターが見出した罪人の現実であり、「真理」であった。ルターは、外側から他者を批判したのではなく、贖宥状に彼自身の罪の問題を感じ、みことばに聴き続けたのである。その結果、認識された「真理」が「提題」となった。この「真理」を認識するまで、ルターはロゴスのうちに留まった。いや、ロゴスがルターを離さなかったと言った方が良いであろう。ルターは、ロゴスのうちで、ロゴスによって、自由を得たのである。自由を与えられた者は、ロゴス以外には何も恐れるものを持たない。ロゴスが自分の神、自分の主だからである。

このようになる者として、我々をみことばによって召してくださったお方は、ロゴスとしてのご自身を我々に与えてくださる。聖餐を通して、ロゴスは我々のうちに入って来られる。自由を生きるようにと入って来られる「自由のロゴス」を受け入れる者でありますように。

祈ります。

Comments are closed.