「罪人を用いて」

2022年1月23日(顕現節第4主日)
ルカによる福音書5章1節-11節

「あなたの語られた言葉の上に、わたしは下ろします、網たちを」と言ったペトロが、思いがけない大漁を目にして言う。「わたしから離れてください。何故なら、罪深い男としてわたしは存在しているから、主よ。」と。信仰深い人だと思っていたペトロが罪人と告白をする。ペトロの罪人告白はどうして起こったのか。おそらく、ペトロが最初にイエスに答えた言葉は、新共同訳が訳すように「それほどおっしゃるなら」という意味であろう。つまり、「獲れないと思いますが、あなたがそう言ったので、わたしは、あなたの語った言葉のゆえに、網たちを下ろしますよ。獲れなくても、わたしの責任ではありませんから、悪しからず」という思いで語られた言葉だったのかも知れない。そのような思いを持っていたペトロだったから、「わたしから離れてください。何故なら、罪深い男としてわたしは存在しているから、主よ」と言ったのだ。

ところが、そのようなシモン・ペトロにイエスは言う。「あなたは恐れるな。今から、あなたは人間たちを生け捕りにしているであろう」と。それは、人間を生け捕りにする者として存在するであろうという意味である。人間たちを生け捕りにするとは、殺すのではなく、生きたままのその人をキリストの網に獲るということである。網に入れられた存在は、キリストのものとされるということでもある。ペトロは、罪を告白したそのとき、「今から」とイエスに言われた。罪を告白した今から、あなたは人間たちをわたしの網に捕らえるのだとイエスはおっしゃった。罪人であることを認めたペトロを用いるということである。イエスの宣教の働きは罪人を用いて行われる。一般的には理解不能な言葉だが、これがキリストの働きである。

罪人の認識を持った者が用いられる。それこそが、重要なことである。何故なら、使徒パウロがローマの信徒への手紙3章10節で詩編13編を引用して言うように、「義人は存在していない、一人だに」ということが真理だからである。誰一人、神との関係において正しく生きている者はいないとパウロも詩編の詩人も言う。すべての人が神から離れてしまっている。神を神とせず、人間の間で生きている。人間同士の関係を重要視して生きている。人間の慣習を重視し、自分の経験からの知恵は間違いないと思い込んでいる。ペトロは、そのような自分の姿を見てしまった。イエスの言葉の上に、網を下ろしたがゆえに、見てしまった。そして、罪人の認識へと導かれ、イエスに告白した「わたしは罪深い男として存在しています」と。そのペトロをイエスは用いるということである。罪人を用いるのがイエスである。どうしてなのか。どうして、罪人を用いるのか。

イエスのもの、キリストのものとされるためには、罪人の認識が重要だからである。使徒パウロも罪人の認識によって、キリストに用いられることとなった。ダマスコ途上での復活のイエスの顕現によって、彼は自らが見ないようにしていた罪を認識した。それゆえに、彼は目が見えなくなった。この出来事を、彼は罪に対する神の罰だと思ったであろう。イエスをキリストと信じる者たちを迫害していたことへの罰だと思ったであろう。ところが、その出来事は、彼がイエスに用いられるために必要なことだった。目を開けてもらうために、パウロはアナニアのところへ導かれ、目を開かれた。他者が必要な存在とされたことが、目が見えなくなったことだった。パウロの目が見えなくなったことは、罰ではなく、罪の認識が明確にされることだったと言える。従って、ペトロも同じく、罪の認識を明確にされ、イエスの前で認めたがゆえに、イエスの働きに用いられることとなった。

罪の認識が必要なのは、人間は皆罪人だからである。善人に思える人も、優しい人と思える人も、皆罪人である。苦しいときの神頼みはするが、順調なときには神など忘れ、自分の力や仲間に頼っている。自らが罪人である認識など持ってはいない。そのような罪人が、認識のないままでは、他者を裁く存在となってしまうであろう。それゆえに、罪を認識した者が、罪赦された者として、イエスに用いられる。裁くためではなく、自分と同じ罪人のままの人間を捕らえ、イエスのもの、キリストのものとして生かすために用いられる。ペトロはそのように言われた。

罪の自覚は、神の出来事に出会ったときに生じる。パウロも同じ。ペトロも神の出来事に出会った。自分の経験からは考えられないような時刻に、大漁となる経験が起こされた。イエスの言葉によって起こされた。ペトロは、自分自身の漁師としての経験を越えた神の出来事として認識し、罪を告白した。それは、彼の心の深みを見た認識であろう。イエスは、そのような意味でも、「深みへと戻って、網たちを下ろしなさい」と言われたのではないのか。

「深み」という言葉は、海の深いところを意味しているが、またペトロ自身の心の深いところ、原罪が働いているところをも意味しているように思える。その深みを、ペトロは見ていなかった。考えてもいなかった。自分は普通に善い人間として、働いている。誠実に、漁師の仕事をしている。家業を受け継いでいると思っていたペトロ。ところが、彼の心の深みにおいては、罪が働いていた。しかし、その心の深みには、さらに別の心もあった。これで良いのか。このまま生きていて良いのか。わたしは何者なのか。という意識である。この意識は、自分にも隠されていて、なかなか認識できない。

神に出会うとき、キリストに出会うとき、この隠された深みにある心を認識するものである。今まで、自分自身が表に出さずにいた心。表に出すと、普通の生活ができなくなると思い、見ないようにしていた心。その心の深みを、ペトロは見たのだ。そして、罪を認識しただけではなく、本当の自分を生きたいと願ったのであろう。それゆえに、「わたしから離れてください」とイエスに言った。それは、罪深い心、神などいなくともやっていけるという思い。会堂で毎週の礼拝に出てはいるが、ただの慣習となっていた自分。信じていると言いながら、心から信じてはいない自分を知っている自分。そのような自分自身を彼は見た。イエスの言葉の上に、網たちを下ろしたがゆえに、見た。

我々は、皆罪人である。如何なる人も、社会的な、表面的な自分しか見ていない。外面を繕って、うまく生きて行こうとする自分しか見ていない。それが罪深いことだとはつゆほども感じていない。これが現実なのだから、こうしなければ生きていけないのだからと、自分に言い聞かせている。しかし、ペトロはその隠れていた自分の深みを見て、イエスから離れようとした。自分の罪深さを知って、イエスから離れようとした。この認識を開いたのは、イエスの語った言葉。イエスの言葉が、ペトロを捕らえた。ペトロは、自分を捕らえた網を手に、人間たちを生け捕りにするであろう者として生きると言われた。罪人としてのペトロが用いられると言われた。これが今日、イエスが我々にも語っておられる言葉である。

このイエスの言葉を我々が受け取り、生きるためには、我々もペトロと同じように、罪を認識する必要がある。このわたしが自分自身の深みを見ていなかったこと。深みにある真実の思いを隠していたこと。隠れていた真実の思いは、わたしが常々思っていた居心地の悪さ。こんなわたしで良いのかという思いであった。この思いを引き出して、明るみに出してくださったのは、イエスの言葉であった。「深みに戻って、網たちを下ろしなさい」という言葉であった。

我々もまた、ペトロのように、自らの深みに戻って、網たちを下ろしてみよう。自分が隠していた真実の自分の思いを見てみよう。そこにあるのは、罪だけではなく、自分自身が前々から感じていた矛盾感。自分の存在の不確かさ。真実の自分を生きたいという思い。さまざまに錯綜する思い。しかし、罪深くても良いと、イエスはペトロを召し出した。罪を認識した罪人が用いられると召し出した。ペトロがイエスに従ったように、我々もまたイエスに従って行こう。罪深いわたしをイエスに差し出して。イエスは、あなたを用いてくださる。

祈ります。

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