2023年11月5日(全聖徒主日)
マタイによる福音書5章1節-12節
報いという言葉は報酬ですから、良いものをもらえる、誉めてもらえると思いがちです。また、報酬、報いは、働いたことに対する対価ですから、わたしが働かなければならないということになります。「働かざる者食うべからず」という言葉がありますが、これがこの世の考え方です。働けない者が食っていけるために、生活保護があるのですが、この言葉のような考え方が支配している社会であれば生活保護を受ける人は怠け者であるかのように見られることにもなります。しかし、イエスはそのような社会に対して、否をつきつけています。この山上の説教においては、まったく働きは語られていません。ただ、7つめの祝福の言葉「平和を実現するもの」というところだけは働きがあるように思えます。しかし、そうではないのです。平和を実現する人は、抵抗しないで、神に信頼している人のことだからです。
今日の日課の12節で言われている「天における多くの報い」という言葉が語っているのは、地上の報いではありません。ですから、地上的、人間的な報いを考えてはならないのです。ここで言われている報いは、救いと言い換えても良いかも知れません。地上で蔑まれ、罵られ、捨てられても、天上では救われて、復活するということです。しかし、わたしたちは、地上で生きていますので、地上で何もなくなって死んでしまうのであれば不幸だと思ってしまいます。それが本当に不幸なのでしょうか。
多くの富を得て、地位を得ていた人が、最後に何も無くなって、地位からも追われて、死んでしまうと、「ああ、哀れだなあ」とわたしたちは思います。本当に哀れなのでしょうか。富や地位が栄光であって、貧困でありただの人であることは不幸だという価値観で生きているならば哀れと思うでしょう。しかし、そのような価値観から解放されているならば、父なる神の許に喜び迎えられて幸いだと思えるでしょう。この世の富も力も神の許における幸いには比べようがないのです。いえ、まったく違う次元の事柄なのです。使徒パウロもコリントの信徒への手紙二5章8節で言っている通り、聖なる霊を与えられているので「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」という価値観の中で生きるのがキリスト者です。「体を離れて」とは、地上的な人間的なものを捨ててということです。つまり、天上において主イエス・キリストの許に住むことを望んでいるとパウロは言っているのです。その際、報いが与えられるとも言っています。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」と。先ほど、何もできない人は働きがない、行いがないとしても救いである報いが与えられると言いましたが、行いに応じた報いということであれば、やはり何か目に見える働きがないと評価されないのかと思ってしまうでしょう。ところが、パウロが言う行いとは、善であれ悪であれ何かを行うということだけではなく、その心のうちにある善と悪をも指しています。つまり、善なる人は悪を行わないのですから、何もしないとも言えます。しかし、悪である人は悪を行ってしまうのです。行わないことを行うというと変に思われるでしょうが、ジョルジョ・アガンベンという哲学者はそんなことを言っています。「できないことができる」というおかしなことを言うのです。しかし、この考え方は面白いと思います。できないのではなく、できないことが可能とされているという意味です。できることが可能とされて、できる。できないことが可能とされて、できない。どちらも神がその人に可能とする力を与えているからそうなるのだということです。できる人はできないようになろうとしてもできないようになることができないのです。
わたしたちは自分ができていることについては、できない人のことをなかなか理解できません。できないのではなくてしないのだと思ってしまいます。確かに、そのような面もあります。しかし、できないように造られているので、できないということもあるわけです。それぞれの特性というようなものかもしれません。そして、できる人はできないということができないのです。イエスが幸いと宣言してくださった人たちの姿を見てみると、彼らはできないことができる人だと思えます。貧しいということは富むことができないのです。悲しむということは喜ぶことができないのです。穏和ということは、怒ることができないのです。憐れむということは、蔑むことができないのです。心が清いということは、他者を批判できず、神に背くことができないのです。平和を実現するということは、戦争できないということです。義に飢え渇くということは、不義を喜ぶことができないということです。この人たちは、できない人たちなのです。もちろん、神さまがそのようにお造りになったのですから、自分で選んでそうなっているわけではありません。ここで問題なのは、できないことではなく、そのできない状態を神さまの祝福として生きているか否かということです。それで、イエスは「幸いである」と宣言するのです。
「幸いである」という言葉は、「祝福されている者たち」という意味です。神の祝福を受けている人たちという意味です。わたしたち地上の人間としての価値観から言えば、貧しい人が祝福されているとどうして言えるでしょうか。悲しんでいるのに、祝福されているとどうして言えるでしょうか。迫害されているのに、祝福されているとは言えない。不幸だ、可哀想だ、哀れだと思ってしまう。そのような地上の価値観の中で苦しんでいる人たちに、あなたがたは神さまに祝福されているのだとイエスは宣言したのです。これは驚きの言葉です。
誰もが不幸だと思う状態を祝福だと言うイエスはおかしいのではないかと思ってしまいます。しかし、イエスが見ておられるのは「天における報い」です。天における報いとは、神さまの報酬です。神さまの救いです。その人たちの働きに応じた報酬。その働きは、神さまが造られたままの自分自身の状態を受け入れて、できないことができるということを生きている状態です。できる人よりも目に見える働きは少ないかもしれません。しかし、目に見えない神に祈り、神に求め、神に向かっている状態で生きている。それが、できないことができる人たちなのです。
今日、わたしたちが守っている全聖徒主日は、先に天に召された人たちを覚える主日です。天地創造の初めから選ばれていたできないことができる人たちが、神のみに信頼して生きていることを覚える日です。地上で生きている間は、彼らもできること、できる人になることこそ価値があると思って生きていたでしょう。しかし、死を通して、何もできない状態に置かれました。何もできないことができるようにされたと言えます。その状態が、実は信仰者の状態であるということです。わたしたちキリスト者は、できることを誇るのではなく、できないことを誇る人たちです。わたしの力では救われようがないことを喜ぶ人たちです。わたしが努力して救われるのではなく、神の憐れみによって救われることを受け入れた人たちです。キリストの十字架はその証。使徒パウロもコリントの信徒への手紙二12章9節でこう言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と。
イエス・キリストは十字架の上で、弱さのゆえに何もできない者として死んで行かれた。しかし、神の力によって生きていると使徒パウロは言っています。それゆえに、十字架のキリストを救い主と信じる者は、神の力によって生きるのだと言います。同じ手紙の13章4節の言葉です。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。パウロが言うように、わたしたち人間は弱い。キリストも弱さゆえに十字架につけられた。しかし、わたしたちもキリストも神の力によって生きている。先に天に召された人たちもまた、弱さを身に負っていました。死は避けられないもの。しかし、神の力に信頼するキリスト者は神の力によって生きているのです。
天に召された一人ひとりを神さまは喜び迎えてくださっています。彼らは神のものとして生きています。地上の生においては、さまざまなことがあったでしょう。苦しみも悲しみもあったでしょう。貧しさにあえぐこともあったでしょう。義に飢え渇くこともあったでしょう。正しいことをしているのに、どうして迫害されるのかと思ったこともあるでしょう。それでも、キリストの宣言してくださる祝福された者としてキリストに従い生きたのです。そして、最後にはできないことができる人として、天に召されていった。そのような人たちを覚えて、祈りましょう。そして、わたしたちもまた神の祝福のうちに生かされていることを喜びましょう。幸いなるかな、キリストに従い行く者たち。あなたがたは祝福された者なのです。
祈ります。
@tぽあいれg