2024年5月12日(主の昇天主日)
ルカによる福音書24章44節-53節
わたしたちはすぐに行うことが良いことだと思い込んでいます。何かがあれば、すぐに対処しなければと思います。もちろん、地震などの自然災害に対して、すぐに対処することによって、多くの命が救われるということがありますので、そのような場合にはすぐに対処すべきでしょう。それでも、すぐに行うことがすべてにおいて良いとも言えないわけです。なぜなら、信仰においては、神さまのときを待つことはとても大切なことだからです。そのような意味で、教会暦にあります待降節は待つことを勧めているわけです。今日の日課でも、イエスは座して待つことを勧めています。
「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とイエスは49節で弟子たちに勧めています。この「留まっていなさい」という言葉は「座していなさい」という言葉です。つまり、立ち上がるときが来るまで、座っていなさいとおっしゃっているのです。
「座している」という言葉は、玉座に座るなどのように地位に就くことを表す場合もありますが、ルカによる福音書の1章79節に「暗闇と死の陰に座している者たち」とありますように、何もできない状態を表す言葉でもあります。ここで弟子たちに勧めているイエスのお心としては、焦って行動するなという意味でしょう。なぜなら、「高い所からの力に覆われるまでは」とおっしゃっているからです。ここで使われている「力」という言葉は、ギリシア語でデュナミスという言葉でして、聖書においては神の可能とする力を表す言葉です。このデュナミスは、力と訳されるのですが、外に現れている力ではなく内側に働いている力のことです。アリストテレスはこのデュナミスとエネルゲイアとを区別して考えました。デュナミスは可能態と訳され、エネルゲイアは現実態と訳されますが、わたしたちの内側にあって働いているのがデュナミスである可能態です。その可能態が現実の世界において現れるときに現実態エネルゲイアとなるとアリストテレスは考えたのです。つまり、内側で働いている力が外に現れるということです。
ここでイエスが弟子たちにおっしゃっている言葉では「高い所からの力に覆われる」と訳されています。この「覆われる」という言葉は服を着るように「着せられる」という意味です。つまり、高いところである天からの可能とする力を着せられるまでは、都の中で座していなさいとイエスは勧めています。着せられるので、内側の力ではないと思ってしまうでしょうが、実は内側の力なのです。着せられるということは、外側のことのように思えますが、その力が衣服のようにわたしのものとなるという意味です。ですから、着せられるということは、神の力がわたしのうちでわたしのものとなるまで待ちなさいということです。わたしのものとなったときには、わたしは神の力によって行うことになるという意味なのです。
そうしますと、弟子たちは、何もできない者として座していることで、彼らの内側に神の可能とする力が満たされていくということです。わたしたちも、充電切れと思うことがありますよね。そのようなときには、充電が完了するまで少し休もうとします。しばらく、横になったり、食事をしたり、本を読んだりして、充電できたとき、立ち上がることができるものです。同じようだとは言えませんが、神の力によって立ち上がって、行動するということは、わたしの力ですぐに動くのではなく、神がわたしを動かしてくださるまで待つということなのです。そのときには、わたしたちは自分の力ではなく、神の力によって行うようにされるのです。それは、神さまの力に信頼する信仰が減っている状態から満ちている状態に移行するために、待つということです。
これまでヨハネによる福音書で学んで来ましたように、ぶどうの枝は幹から十分に栄養をいただいて、溢れ出すようになるときに実を結ぶことになるわけです。それと同じように、高いところからの力を着せられるならば、神の可能とする力が溢れ出て、わたしの力ではなく神の力によって行うことができるとイエスはおっしゃっているのです。
このように考えてみますと、わたしたちは待つ必要があるのです。焦って行うときは、自分の力だけに頼っていますし、協力者である人の力に頼ってもいるでしょう。それは人間の力に頼っているということです。しかし、キリスト者は神の力によって生かされていることを知っているのですから、神の力によって行動するのです。神の力によって行うとき、わたしたちは自分を誇ることなく、ただ神がわたしを用いてくださったと謙虚に行動することになります。そのようになるまでは、都の中で座していなさいとイエスはおっしゃるのです。
この言葉を喜んで聞いた弟子たちは、「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」と記されています。彼らが喜んだのは、自分たちが焦って行動する必要はないと知ったからです。そして、神の力を着ることになるという喜びの約束を待ち望む心にされたからです。
わたしたちは待つことができずに、性急に行動して、躓いてしまうということがあります。性急さは結果的に神のご意志を無視することになります。神さまが待っていなさいとおっしゃっているのに、待てずにいるのはわたしなのです。自分の力によって神の力を着せられるということはないのですから、待っていなさいとおっしゃるイエスに従って座しているでしょう。でも、いつまで座っていれば良いのだろうかと思う気持ちも起こってきます。それでも、座していることができるかどうか。そこが分かれ道になります。
わたしたちは座して、何もしないことが悪いことだという思いに支配されています。何かしなければと思うのです。しかし、わたしたちが座していたとしてもできることがあります。祈りは座していてもできます。ところが、わたしたちは祈っているだけではダメだと思ってしまうのです。そのとき、わたしたちは祈りの力を知らないと言えます。いえ、真実に祈ったことがないから、そうなってしまうのです。祈りの力は、わたしたちのうちに充満して、溢れ出るときに、見えてくるものです。祈っていない人は、この祈りの力を知ることがありません。すぐに行動する人は祈ることができません。まず、祈ってから行動するというときにも、とりあえず祈りましょうと、短い祈りをして、すぐに行動する。十分に神の力を着せられるまで祈り、待つことができない。それが、わたしたち罪人の姿なのです。すぐに結果を出したい。すぐにどうにかしたい。わたしがどうにかできるという思いに支配されているからです。イエスがおっしゃるように、「都の中で座していなさい」ということは、あなたの力では何もできないことを受け入れて座っていなさいということです。そのような謙虚な姿勢こそ祈りの姿勢なのです。
何かをしなければならないのではなく、行動へと押し出される心が溢れるまで待つ。待っているならば、必然的に行動する心と力が溢れてくるということです。そうなったとき、わたしたちは自分の求める結果ではないとしても、行動した結果を神のご意志として素直に受け入れるでしょう。そうしてこそ、神のご計画がなっていくのです。そうできないとき、わたしの計画はなっていくかも知れませんが、神の意志は無視されたままです。わたしの目の前には、上手く行った結果が見えるかも知れませんが、終わりの日にその結果は無に帰するのです。
イエス・キリストもまた、神のご意志であるご計画がなるようにと祈り、十字架を引き受けられました。十字架の上で死んで、葬られました。待っていれば、死んでしまう、葬り去られてしまうと言えます。どこに神のご意志がなっているのかと思えます。それでもなお、十字架の死を引き受け、神のご意志がなることを信じたイエス。そのイエスを神は復活させられたのです。このお方が、都の中で座していなさいとおっしゃるのです。あなたが高いところからの可能とする力を着せられるまで、座していなさいとおっしゃるのです。これが聖霊降臨へと続く、神のときなのです。聖霊降臨は、待つ人にのみ降る神の力なのです。そのために、イエスは天に昇り、聖霊を送ってくださる。父と共に、天からの聖霊を送ってくださる。聖霊なる神である父の約束を喜び待ちましょう。聖なる霊は、あなたのうちに神の力を満たすために来てくださいます。わたしが自分の力、人間の力を完全に離れ、鎮まり、座すとき、主は必ず、あなたを立ち上がらせる力を着せてくださいます。祈ります。