「初めからの存在」

2024年5月19日(聖霊降臨祭)
ヨハネによる福音書15章26節-16章15節

物事の初めにはその後のすべての要素が存在しています。初めに起こったことは、その後に起こるべきことを含んでいて、初めになかったものはその後もないのです。しかし、わたしたちは何事もさまざまな切っ掛けで増えていくものだと思っています。果たしてそうなのでしょうか。

初めにおいては、見えないほど小さな要素が大きなものになるということがあります。たとえば、小さな種の中にはその後の大きな木の要素が含まれています。その要素がなければ大きな木は出現しません。小さな種はその後のすべてをうちに含んでいるのです。その木が大きくなって、実をもたらし、さらにその木から種が飛んで、別の木になるということも起こる。そうすると、最初の種には、別の木が生まれる要素も存在していたということになります。

創世記の天地創造の記述の中では、植物に対して、神はこうおっしゃっています。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」。また、動物や人間に対して、神はこうおっしゃっています。「産めよ。増えよ。地に満ちよ。」と。神がこうおっしゃるということは、その初めにおいて、その後のすべての存在が小さな種に存在していたということなのです。初めに存在していたものが、後になって現れてきて、見えるようになる。神は創造の初めにおいて、その後のすべてを創造したのです。初めのものだけを創造したのではありません。そのような意味でも、イエスはヨハネ福音書5章17節でこうおっしゃるのです。「わたしの父は今もなお働いておられる。」と。つまり、神は創造し続けておられるということです。初めにおいては見えなくても、後に見えるようになる。わたしたちの世界、神が創造した世界は、常にこのように現れてくるのです。

今日の日課で「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」とイエスがおっしゃっています。ここで「初めから」と言われていますが、この「初めから」という言葉は、「初めに言があった」と始まるヨハネ福音書1章1節の言葉と同じ「初め」という言葉が使われています。イエスのこの言葉を、イエスが公生涯において宣教を始めた頃からという意味だとわたしたちは思いますよね。ところが、ここで言われている「初めから」がヨハネ福音書1章1節の「初めに」のことだとすれば、弟子たちはこの世の初めにイエスと共に存在していたということになります。普通に考えれば、そのようなことはあり得ませんから、イエスの公生涯の初めの頃からという意味にわたしたちは理解しようとするのです。しかし、今わたしが話しましたように、創造の初めには今の弟子たちの要素が創造されていたと理解することができます。そうであれば、彼らは神の言葉であるイエスの言葉のうちに初めから存在したのだということになるのです。彼らがこの世に現れる前に、彼らの存在は神の言葉のうちに存在していた。それがヨハネにおいて「選び」と言われている事柄なのです。その「選び」を受け入れることによって、初めからの要素が弟子たち自身のものとして現れるようになったということです。ですから、その要素が現れることを受け入れた今の弟子たちは、神の言葉、ロゴスであるイエスの言葉のうちに初めから存在していたのです。

この弟子たちが、初めからのことを思い起こすために、聖霊が派遣されます。聖霊は、真理の霊と言われ、弁護者、励まし手とも言われます。この聖霊が弟子たちに教えるのです、初めから存在したものが今どのように現れているのかということを。彼らが聖霊を受け入れることによって、彼らは自らのうちに初めから存在していた神の意志、神の言葉を知ることになるのです。そうなったとき、彼らは証すると言われています。何を証するのでしょうか。「わたしについて」とイエスはおっしゃっています。聖霊も、弟子たちもイエスについて証するということです。イエスについてというよりもロゴスについて証すると理解した方が良いでしょう。イエスは、ロゴスが肉として生じたお方だからです。そして、初めから存在したのが神の言葉、神であるロゴスだとヨハネ福音書は語り始めています。つまり、聖霊とは、地上のイエスについて証するというよりも、天上のロゴスが地上のイエスという肉として生じたことを教えるのです。さらに、そのロゴスは創造している父なる神ご自身でもあるということを証するのです。ですから、弟子たちもロゴスの創造の初めに存在していた自分自身を思い起こして、ロゴスについて証するということです。

弟子たちの証は、聖霊が指摘する世の罪の姿が真実であることを証すると言われています。それはあくまで、イエスについての証、イエスに関わる証であるということを忘れてはなりません。その証はどのような証かと言えば、「罪」、「義」、「裁き」という三つだと言われています。「罪」はイエスへの不信仰です。「義」とはイエスの昇天と地上における不在です。「裁き」とはイエスの十字架におけるこの世の支配者の断罪です。これらの反対の事柄が、創造の初めに存在した世界なのです。その世界が、罪の世界に変わってしまっていることを、弟子たちは証するということです。ここで述べられていることの反対の世界は「信仰」、「天地の一体性」、「赦し」ということになります。

イエスを信じる信仰を与えられることによって、天と地が一体である世界に生きることになります。その世界においては「裁き」は存在せず「赦し」が存在するのです。「裁き」というのは、人間が自分の力で裁かれないようにしようとするときに自分で裁かれている状態を作り出すことです。反対に、裁かれることを受け入れるとき、神の赦しの中に生きることができるのです。ですから、ここで言われているこの世の誤りというのは、この世が本来の在り方を忘れている、または見えなくしていることを指しています。その本来的な人間の在り方に入ることが信仰なのです。

しかも、信仰はわたしがそう信じるということではありません。神が信じるようにしてくださる働きを受け入れ、従うだけです。そのように受け入れる人は信じている人です。そのように信じている人は、神の世界の中に生きていますので、神は天にいて、わたしは地にいるというようには考えません。むしろ、神がおられる天はわたしのそばにあると信じて生きていますので、天地の区別も隔たりも存在しないのです。また、裁かれることを受け入れているのですから、十字架の赦しがその人を包むのです。

このような信仰の世界に生きるようにされることが、聖霊降臨の出来事なのです。聖霊が一人ひとりに降り、神の偉大な働きについて証ししたと使徒言行録で語られている通りです。聖霊は、十把一絡げで降るのではありません。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と言われている通りです。一人ひとりに降るのが聖霊です。一人ひとりが神の偉大な働きについて証するのです。しかも、その働きは創造の初めから存在したロゴスの働きであることを証するのです。聖霊が、創造の初めのことを思い起こさせてくださるからです。使徒言行録の記述のような力ある言葉を一人ひとりが語り、証することになるということです。この証は、わたしが救われたときの証のようなものではなく、この世界が神の世界であり、神の御支配の下にあって、いかなる方向に向かっているのかを証すること、つまり神の救いの計画を証するということです。そのような証はわたしたちのこの世の知恵では理解できない事柄です。だからこそ、神の知恵を与える聖霊が必要なのです。聖霊によって、わたしたちは世界の初め、創造の初めからこうなるような要素が存在し、消え去れることなく、このときに現れたのだということを受け入れ、証するのです。

ということは、わたしたちの目の前にある世界は、初めからあった世界が現れることを妨げる人間の罪が作り出した世界だということです。その世界を初めからの世界にするために、ロゴスであるイエスは肉として生じ、十字架に架けられ、天に昇り、聖霊を派遣して、選ばれた弟子たちを通して、宣教しているのです。わたしたちもまた、初めから神のロゴスのうちに存在していたわたしであることを忘れてはなりません。初めからの選びに与っていることをわたしたちに教えるために、イエスはご自身の体と血をみことばと共に与えてくださいます。神の言葉、神のロゴスであるイエスが、あなたのうちに生きてくださる聖餐を通して、あなたは初めから神の内にあったあなたを生きることになるのです。神の世界を生きる選ばれた人たちと共に、本来のわたしを生きていきましょう。

祈ります。

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