2024年5月26日(三位一体主日)
ヨハネによる福音書3章1節-18節
今日の聖書では、ニコデモとイエスとの間で「生まれる」ということについて対話が行われています。わたしたち人間はどうして生まれるのでしょうか。わたしは何のために生まれたのでしょうか。何かを達成することがわたしの生まれた意味でしょうか。ともすれば、わたしたちは何者かになることで、生まれた意味があると考えるものです。しかし、何者かになる人は一握りの人たちです。大多数はその人たちをうらやましく思いながらも、普通の人として生きています。普通の人ではダメなのでしょうか。生まれてきた意味がないのでしょうか。普通の人である大多数の人たちがいるお陰で、少数者が何者かであることができているのではないでしょうか。彼らは、大多数がいなければ何者かであることはできないのです。大多数のお陰で、何者かであることができているとすれば、大多数がいなければ少数者は何者でもないのです。
わたしたち人間はただ生まれただけでも恵まれているものです。ただ生まれたと言っても、生まれなかった人たちもいる中で生まれて、大人になっていくことができている。それが普通のことだから、普通では物足りない。普通以上になりたいとわたしたちは考えてしまいます。何者かであることが、わたしのいのちの価値なのでしょうか。
わたしたち人間は生まれようとして生まれてきたわけではありません。わたしを生み出したいという意志があって、わたしは生まれてきたのです。わたしが存在することの大元にあるのは神の意志です。この世界を創造なさった神が、このわたしも造ってくださったのです。ルターは小教理問答書の使徒信条の項目においてこう言っています、「私は信じている。神が私をお造りになったことを。すべての被造物と一緒にだ。」と。この世界と共にわたしは創造されたのです。この世界の中に生み出された存在は何かを成し遂げなければ生み出された意味がないという考え方は人間社会の考え方です。動物はどうでしょうか。自然の樹木はどうでしょうか。何かを成し遂げるとか、何かを作り出すということではなく、造られたままに生きて、死ぬのです。そのような動植物は生きている意味がないと誰が思うでしょうか。わたしたち人間だけが自分の生きている意味を求めますが、自然は求めません。そう考えてみれば、わたしたちが価値があると考えているものは、神が創造した自然の中では何ものでもないと言えます。むしろ、自然を破壊し、神が創造した世界をこわしているのが人間です。そのような人間の方が、生まれなかった方が良かったと、動植物は思っていないでしょうか。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章19節においてこう言っています。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」。被造物というのは自然世界全体です。その被造物が虚無に服しているとパウロは言い、神の子たちの出現を待っているのだと言います。この出現という言葉は、覆いが取り除かれるという意味です。つまり、覆いがかかっていて、神の子が見えなくなっているという状態から、覆いが取り除かれて、見えるようになることを熱心に待っているのが、被造物だとパウロは言うのです。被造物の方が、実は神の子を見ているのでしょう。覆われていることが分かっているのでしょう。それで、覆いが取り除かれて、見えるようなることで、神の子として生きるようになる人間を待っているということです。
パウロが言うことから考えてみれば、わたしたち人間は神の子として生まれているのに、神の子として生きてはいないのです。神の意志ではなく、自分の意志に従い、自分が求める価値を実現しようと躍起になっている。そして、自然界を破壊し、自分たちの世界を構築している。そのような人間の価値の支配に服している被造世界が、神の子が見えるようになることを熱心に待っているのです。それは被造物の祈りであると言えるでしょう。
わたしたちが神の子としての自分自身を見出して、神の子として生きていくこと。それが、今日ヨハネによる福音書でイエスがおっしゃる言葉に語られています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。また「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ともおっしゃっています。「新たに」という言葉は「上から」という意味で、つまりは「天から生まれる」、「神から生まれる」ということです。「水と霊によって」ということは、洗礼のことですので、洗礼は「天から生まれる」ことであり「神から生まれる」ことだと言えます。それは信仰的な誕生を意味しているのです。そして、パウロが言うような覆いが取り除かれた神の子の出現なのです。
わたしたち人間は自然的に生まれても神の子として生きてはいません。神の子の自覚もありません。神に造られたことを忘れていると言っても良いでしょう。しかし、洗礼のサクラメントを通して、わたしたちは神の子であるわたしを生きることになります。もちろん、洗礼によって救われると言われると、罪の赦しを受けることだと考えるものです。その罪が、わたしたちが神の子であることを覆い隠しているのです。罪を認めることによって、わたしたちは罪の赦しを受け、キリストと共に死ぬ洗礼を通して、新たに生まれるのです。神の子である人間として生まれるのです。神の子の自覚のうちに生きることによって、もはや地上の栄誉や地位や成果によって、自分を誇る必要がなくなるのです。神の子として生きることがわたしが生まれた意味だと受け止めて、生きることになるからです。このとき、わたしたちは真実に人間として生きることになると言えます。
自然的に生まれただけでは、神に造られた人間として生きているとは言えないのです。神の子として生きているとき、わたしたちは真実に人間になっているのです。わたしを生み出してくださった神に感謝して生きているとき、わたしは神の子なのです。何かを成し遂げたから価値があると考えるのは、地上的な人間の考えです。天上的な、信仰的な人間には、地上的な価値など必要ないのです。与えられたところで、与えられた働きを誠実に行い、喜んで働いて生きる。それだけで良いのです。あなたは、神の価値をいただいているのです。神があなたを生むことを望んだこと、それこそがあなたの価値です。そこに生きる人は、一人であっても生きていきます。二人なら協力して生きていきます。助け合うことも神の子同士の生き方でしょう。慰め、励まし合うだけではなく、戒め合い、互いに誠実に神に従うことを求めて行くでしょう。
わたしたちが真実に人間として生きるということは嘘偽りのないいのちを生きることです。わたしの罪が覆い隠していたものを取り除かれて、神に造られたままのわたしを回復されて生きていく人は神の子としての自分を真実に生きるのです。そのような人は、霊から生まれた人です。霊的な人ですから、風のように生きる。周りの人は、その人がどこから来て、どこへ行くのか分からないでしょう。しかし、その人自身は、自らのうちに吹き込まれた神の息、神の霊に従って吹いていくのです。捕らわれることなく、自由に生きていくのです。
もちろん、わたしたち人間は神の子とは言え、神の養子です。神の実子はイエス・キリストのみです。そのキリストと共に死んで、共に甦る洗礼を受けた人は、信仰的に神の子として生まれる、つまり神の養子になるということです。神の実の子であるキリストは、神です。父なる神と子なるキリスト、そして父と子から吹いてくる聖なる霊、父と子と聖霊とは、わたしたち人間が真実の神の子として生きるために働いてくださる神なのです。神の創造した世界の中に、神の子が隠れなく生きるようになるために、三位一体の神が働いてくださる。この神秘的出来事を通して、神は被造物の祈りを聞き届けてくださるのです。
三位一体主日の今日、わたしたちは自分自身のうちに生きて働いてくださるお方のお働きを改めて感謝しましょう。そのお働きを通して、わたしが罪の覆いを取り除かれて、救われたことを感謝しましょう。あなたを造ってくださった神は、罪深いこの世を愛して、ご自身の御子を与えてくださいました。罪深い世となってしまっても、神が創造された世界です。その世界が新たにされるために、天に上げられた御子イエス・キリストのみことばが常に語られ、覆いを取り除かれる人が増し加えられて行きますように。この世界に生まれた人間が神の子の自覚のうちに生きていくことができますように。一人ひとりの人間のうちに聖霊の風が吹いて行きますように。共に祈りましょう。