2024年6月2日(聖霊降臨後第2主日)
マルコによる福音書2章23節-3章6節
わたしたち人間は、神さまの御支配である神の国に生きています。信じていなくても、神の支配の下に生かされています。わたしたちは、神さまのものの中で生きることを許されています。神さまのものを使わせてもらって生活しています。この世界を造ったときにも、神さまは実のなる草木などをわたしたち人間の食べ物として造ってくださいました。また、それは動物たちの食べ物でもありました。この世界のすべては神さまのものですが、それをわたしたちは自分のために使って良いのです。支配者である神さまが使って良いとおっしゃり、食べて良いとおっしゃる。それが神の国、神の支配です。何故かと言えば、神さまの世界に生きるようにされた存在が生きて行くためにそれらのものを神さまは造られたからです。今日の聖書でも、イエスは安息日について同じようにおっしゃっています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と。
神さまは、この世界の創造者です。神さまは、お造りになったものを生かすために、さまざまなものを与えてくださり、使うことができるように準備してくださった。イエスは、そのような神さまの創造世界に生かされていることを、人々に教えておられます。
「だから、人の子は安息日の主でもある。」とイエスはおっしゃっていますが、「人の子」というのは救い主、メシアの尊称ですから、イエスが安息日の主人であると言うのです。ということは、安息日を造った神であるという意味になって、イエスが安息日を造った主人であり、その安息日は人間のために造ったのだとおっしゃっていることになります。イエスは、人間のために創造する神だとご自分のことをおっしゃったわけです。それゆえに、安息日に相応しくないことをしていると批判したファリサイ派の人たちに反論しているのです。
また、その安息日に礼拝するため、会堂に入られたときにも、手の萎えた人を癒すかどうかで、イエスが安息日律法を守るのかどうかを判断しようとしていた人々もいたようです。その人々に対しても、イエスはこうおっしゃっています。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。安息日に相応しいことは、人間を生かすために相応しいことを行うことだと先におっしゃったわけですから、ここでも「善を行うこと」であり「命を救うこと」が相応しいことだと言えます。これは誰にでも分かることでしょう。ところが、彼らは何も答えず、沈黙していた。どうしてでしょうか。
彼らは答えたくなかったのです。イエスに答えるのでなければ、彼らも当然命を救うことであり、善を行うことが義しいと答えたことでしょう。ところが、彼らは沈黙した。善と救いが当然必要だということは分かっていたのに、です。そう答えてしまえば、自分たちが批判しようとしたイエスの癒しを肯定してしまうことになります。だから、何も答えたくなかった。
しかし、すべて何もしてはならないと答えても良かったでしょう。安息日には何もしてはならないと聖書には書かれているのですから、命を救うことも、善を行うことも、悪を行うことも、殺すことも、すべてしてはならないはずです。だから、安息日が終わる夕方になってから癒せば良いと答えても良かったでしょう。それなのに、彼らは沈黙したのです。この沈黙は、イエスには答えたくなかったということを表しています。
一方で、安息日には何も仕事をしてはならないということは確かに律法に書かれています。しかし、その意味は、家の使用人である奴隷たちが休むことができるためであると注釈がついているのです。主人が休まなければ、奴隷たちは休めないということです。申命記にはそのように書かれています。実は、これが重要な点でした。なぜなら、何のために安息日があるのかという安息日の意味、目的がそこに記されているからです。ところが、当時の人たちは、ファリサイ派の人たちも含めて、仕事をすることが悪いことだという考えに陥っていました。そこでは何のために禁止されているのかということが忘れられていたのです。何のために、聖書に書かれているのかということを忘れて、表面的な「行ってはいけない」ということだけを守っていたということです。守ることで、神の国に入ることができると思っていたでしょう。それが、神の国から人々を閉め出すことになっていたのです。
律法に書かれていることを守っていないならば、神の国に入ることはできないと教えていたのがユダヤ教指導層たちでした。ところがイエスは、書かれていることの大元には何があるのかを教えています。律法では禁止されていた祭司以外食べることができない供えのパンをダビデたちは食べたという故事を引き合いに出して、人間が生きるためには禁止されていても食べて良いのだと教えたのです。安息日の規定も、人間のために造られたのであって、人間が安息日のために造られたのではないとおっしゃっています。何のために作られた規則なのか。何のために神は戒めておられるのか。その規則や律法の大元にある神の意志を受け取るならば、禁止にこだわることにはならなかっただろうと、イエスは反論しているのです。そのイエスの意見に同意したくなかったので、彼らはとにかく反対し、イエスを律法違反で訴えたかった。
わたしたちが規則を守るということは、規則が守ろうとしているものが何であるかを理解して守るべきです。ですから、規則で守られるものが何であるかをわたしたちは良く考える必要があるのです。もしかしたら、彼らもそんなことは分かっていたかも知れません。しかし、イエスには同意したくなかった。
安息日だけではなく、律法が与えられたのは、人間が神の国において神の御支配の下で、どのように生きていくべきかを神が示すためでした。そこには、神が創造した世界とそこに置いた人間たちが生きるために必要なものがあったのです。人間たちが生きるために必要なものを与えるということが目的だったのです。人間のいのちを守るために、律法が与えられているのです。主人だけではなく、奴隷たちのいのちを守ることが安息日の意味だったのです。人間の支配の下に生きざるを得ない人たちを守るのが、安息日律法だということです。そして、この世界は人間のために創造された世界であると言えます。いえ、人間だけではなく、いのちあるもののために創造された世界。いのちあるものだけではなく、無機物である石にしてもそれが存在すること、存在して用いられること、そのためにも世界は創造されたのです。わたしたちが生かされている地上の世界は、存在を生かす神の世界なのです。
イエスは、この地上の世界で、生き難さを抱えている人たちのために、神は律法を与え、生かすために働いてくださっていると教えてくださるのです。誰も、他者のために仕える奴隷ではないのです。神の支配の下に生かされている人間は、一人ひとりが神のものです。神のものを他の人間が使うことなど実はできないのです。それぞれの人間が自発的に他者のために仕えようとすることはできます。その自発性は、神が思いを起こして、生かしてくださることに従うことです。誰かを喜ばせるために仕える必要はないのです。たとえ、誰かのグループから排除されたとしても良いではないですか。そのグループに留まることがあなたのいのちを害するならば、抜ければ良いのです。神の御支配の下に生きている人は、群れる必要はありません。一人ひとりが神に従うだけです。誰も、あなたを縛ることはできないのです。神が求めるのは、いのちを守ることです。そのために、あなたが自発的に自分を犠牲にするということも認められています。それでも、誰かのために犠牲にするのではなく、神の創造の世界のため、神のご意志に従うために犠牲にすることが大事なことなのです。それは、キリストの十字架が語っていることです。しかし、自分たちが支配する世界を守りたいという思いのために、イエスが言うことを彼らは認めたくなかった。イエスが言うことは義しいと知っていても認めたくない。そのために沈黙する。それは神の意志を拒否するということです。
イエスは、周りがどうあろうと、何と言われようと、神のご意志に従い通しました。十字架の死に至るまで神の意志に従順でした。律法の大元にある神の意志に従うために、そして一人ひとりのいのちを回復するために、イエスは十字架を引き受けてくださったのです。このお方が求めているのは、いのちが窒息しないように生かすことです。今日共にいただくイエスの体と血は、あなたに善を行い、救いを与えるために、そして、あなたを自由にするために与えられるのです。キリストはあなたのために喜んでご自分のすべてを与えてくださいます。このキリストのいのちをいただいて、キリストに従い、神の世界を喜んで生きていきましょう。
祈ります。