2024年6月9日(聖霊降臨後第3主日)
マルコによる福音書3章20節-35節
「内輪もめ」は、内輪ではなくなること、仲間ではなくなることですね。もめている状態を今日の聖書は「内輪で争う」こと、つまり「分裂」と述べています。国や家が、自ら分裂するならば、その国や家は立っていることができないと言われています。イエスが、このようにおっしゃったのは、ご自分のことを「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と批判されていたからです。もし、そうであればそれは「内輪もめ」であって、分裂した国や家と同じだとイエスはおっしゃるのです。
しかし、このような状態に陥らせること、あるいはその原因を作ることは誰にでもあります。自分に従う人だけを集めている状態は、言ってみれば分裂を作りだしていると言えるかも知れません。イエスも同じように見られていたのです。イエスに批判的なファリサイ派や律法学者たちは、イエスが現れたことによって、自分たちが作っていた形が壊されてしまうということでイエスを排除しようとしていました。イエスを追い出せば、また自分たちの世界を取り戻し、一つにすることができると考えていたでしょう。それで、分裂を作りだしている悪魔はイエスであると彼らは批判したのです。
わたしたちの社会においても、さまざまな意見が飛び交います。一つの意見にまとまるということはありません。それぞれの立場を守るために、それぞれの意見が述べられる。これは当たり前のことです。しかし、それらの異なった立場からの意見がどこかで折り合いをつけて、一つにまとまるかと言えば、そうはなりません。一見、まとまったかに思えて、何かがあるとその食い違いが露わになっていきます。そして、最終的には分裂してしまうことにもなります。政治の世界を見ていれば、世界はそのようであると思えます。
イエスは、それまでのユダヤ教の体制に対して批判しましたが、イエスが立っていたところは弱い人たち、病気の人たち、罪人たちの立場です。つまり、言葉を発することができない人たちの立場にイエスは立っていたのです。誰も彼らの言うことには耳を傾けなかったのです。かつて、預言者たちは社会から排除されている人たちがいる状態を批判しました。イエスもまた、預言者たちと同じように、声を上げることができない人たちの苦しい状態を作り出しているユダヤ教の当時の体制のあり方を批判もしました。体制側は、強い人たち、健康な人たち、義しいと思い込んでいる人たちの立場に立っていました。それぞれの立場でまとまっていて、違う立場の人たちを排除するならば、分裂になりますが、それぞれの立場でまとまるだけであれば、分裂にはなりません。別々のグループができるというだけです。それでも良いのに、まとめなければと考えてしまうとき、違う立場を排除して、一つの立場だけにしようとして、かえって分裂を生み出してしまうのです。
それぞれの立場の違いを認め合って、立場の違う人たちの邪魔をしないならば分裂にはならないでしょう。律法学者やファリサイ派はイエスの邪魔をしています。イエスの身内の人たちもイエスを取り押さえるために来ていますので、邪魔をしているのです。自分たちの立場を守るために、イエスが何もできないようにしようとしています。自分たちの身内が社会を混乱させるようなことを言い始めたので、自分たちが属しているグループから排除されないために、イエスを取り押さえておくためにやって来たのです。
そのような身内や社会に対して、イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」とおっしゃっています。彼らはイエスの言葉を聞いているだけではないでしょうか。何か行っているのでしょうか。イエスの周りに座っている人たちは、神の御心、神の言葉を聞いているだけだと思えます。しかし、それはとても大事なことです。何かを行うということは、まずその何かを聞くことから始まるからです。しかも、聖書においてもっとも重要なことは、神の言葉を聞くことです。聞いた神の言葉が、わたしのうちで働いて、わたしを動かす力となるのです。「信仰は聞くことから」と使徒パウロが言う通りです。まず聞かなければなりません。聞くことなく、自分の考えに従って動くときには、いろいろなことを行っていても、神の御心を行っているとは言えません。
わたしたちは、いろいろ行うことで自分の価値を確認しているところがあります。これをやった。あれもやった。こんなにいろいろなことを実行したと誇ることも起こります。見た目には、確かに多くのことが行われているでしょう。しかし、その行いは自分を誇るために行われている限り、神の御心に動かされているわけではありません。イエスを批判している律法学者やファリサイ派は自分たちが神の意志を実行していると思っていました。イエスは、自分たちとは違うことを宣べ伝えているので、神の意志ではなく悪霊に支配されているか、悪霊そのものだと思ったのです。彼らの方が悪霊に支配されているのかも知れないのに。
イエスは、日課の最後のところでこうおっしゃっています。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。この「聖霊を冒涜する」というのは、イエスを批判していた人たちに対して語られていることです。律法学者たちは聖霊を冒涜していたのでしょうか。ヨハネによる福音書でイエスがおっしゃるように、聖霊は思いのままに吹く風のようなものです。聖霊に導かれている人は自由に吹いて行きます。聖霊に導かれている人は、神の意志に従って吹いて行くのです。だから、神の御心、神の言葉を聞いている人たちを批判する人は、聖霊を冒涜している人だと言われているのです。
イエスの周りに集められてきた人たちは、聖霊の導きに従って、集められてきた人たちでした。社会がイエスをどのように見ていたとしても、思いとどまることなく、イエスの周りに集められてきた。彼らは聖霊の風に吹かれて、イエスの周りにやってきたのです。そのような人たちをイエスは「神の御心を行う人」とおっしゃったのです。この人たちは、神の意志という一つの意志に従ったのです。そして、自分たちと違う人たちを批判することなく、ただ自分自身が導かれるままにイエスの許にやってきた。それが「神の御心を行う人」と言われている人たちです。反対に、律法学者たちは、イエスやその周りの人たちを批判するために取り囲んでいる。そして、イエスを取り押さえようとしているイエスの身内もいます。どちらが神の御心を行った人でしょうか。イエスははっきりと言います。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と。
イエスの母、兄弟とは、イエスが見ておられる人たちです。イエスの周りに集められてきた人たちです。イエスの家族とは、聖霊によって集められた人たちのことだとイエスはおっしゃっているのです。イエスが見ている人たちは、聖霊が導くままにイエスの許へとやって来たのですから、社会を気にすることもなかった。彼らはただ神の言葉を聞くことだけに心を向けていた。今は、そこに座っているだけにしか見えないでしょう。ところが、ここに集められてくるまでに、さまざまな妨げを受けながらも、ここにやって来たのです。ここに来ることを優先したのです。そのような意味で、彼らは「神の御心を行う人」なのです。
神の言葉を聞くために、妨げを乗り越えて来た人たち。彼らは多くのことを行ってきたのです。分裂させようとする人たちの動きに惑わされることなく、ここまでやって来た。悪霊に取り憑かれていると批判されているイエスの許へやってきた。彼ら自身も批判されながらも、ここまでやって来たのです。このような人たちが乗り越えて来た道こそ、神の御心を行う道だったのです。
一つの意志に従って生きるならば、分裂など恐れることはない。一つの意志があなたを招き、あなたをここに集めている。その意志は、神の言葉です。神が語り掛ける言葉です。あなたに語り掛ける言葉を聞くために、あなたは邪魔する悪魔を無視して、ここに来たのです。その道にこそ、イエスの母、兄弟姉妹がいるのです。
一つの意志である神の意志は、あなたがたをまっすぐに立たせようとする意志です。揺るがされることなく、立ち続ける意志の許に立たせようとする意志です。この意志を行うことは、この意志を聞こうとすることです。それこそが、わたしたちが聖霊に導かれて行うことなのです。聖霊があなたを導くままに吹いて行くとき、あなたは神の意志に従って生きているのです。聖霊のお働きによって、一つの意志である神の言葉を聞き続けるのです。神の言葉はあなたを生かす言葉です。社会が、周りがどのようであろうとも、揺るがされることなく、みことばだけを聞き続ける者として生きて行きましょう。
祈ります。