「人間に見えない世界」

2024年6月16日(聖霊降臨後第4主日)
マルコによる福音書4章26節-34節

わたしたち人間は、目で見ることでさまざまなことを確認しています。しかし、目に見えるようになるまでは何も分からないままです。見えるようになるまでに何が起こっていても、気づくことなく過ごしています。見えるようになって、慌ててしまうということもありますね。

災害対策が叫ばれるのも、地震などの被害が見える形で起こったときです。見えないうちは、地震など考えることなく、わたしたちは過ごしています。ところが、いろいろと研究している人たちは、早くから警告しているのです。そのような人たちでさえも、見えないものを研究することはできません。極小さなことに注意を払っているのですが、その極小さなことが現れてくる前の段階で地震を察知することは誰にもできません。

今日、イエスがたとえで語っておられることも同じですね。種を蒔いても、一つひとつの種がどこに落ちたのかは蒔いた人にも分からないのです。当時の種まきは、ばら蒔くだけですから、芽が出てきてようやく分かるということです。芽が出てこないうちは、土の中に隠れていますので、見えません。その土である地はそれ自身によって、実をもたらすと言われています。土である地そのものが実をもたらすように種に働きかけるということです。種だけでは実をもたらすことには至りません。肥沃な土があって、種に栄養が与えられ、実をもたらすことになるわけです。その経過については、人間は何も分かりません。

以前にお話しましたように、種自身の中にその後のすべての要素が存在しているのですから、土は種の中にあるすべての要素が現れてくるように働きかけるということです。そして、すべての要素一つひとつが見えるようになる、現れるのです。イエスのたとえの中でも、からし種がいかに小さくても大きな木のようになるものがその種の中に隠れていたということです。そう考えてみますと、現れてきたものだけを見ていても神の世界は理解されないことになります。イエスは、見える世界ではなく、見えない世界において成長する種や見えないものが現れてきてようやく分かるようになるからし種のことを神の国にたとえているわけです。つまり、見えない世界がなければ見える世界は存在しないということです。さらに、見えない世界を含めて、神の国なのだとおっしゃっているのです。

神の国という言葉は、神のご支配と訳すこともできます。神さまが支配しておられる領域が神の国なのです。神さまの支配領域が神の国であるならば、神さまの支配領域に入らないものは何もないということです。この世の見えるものも見えないものもすべて神さまの支配の下にあるということです。そのような世界を教えるために、イエスはたとえを語っておられる。それはまた、たとえで語るしかない世界でもあるのです。なぜなら、人間は見える世界しか認めようとしないからです。見えない世界は、信仰によって見る世界だからです。その信仰の世界を教えるために、たとえを用いてイエスは語っているのです。だからこそ、弟子たちにはたとえの説明をなさったとも言われています。

たとえの説明というのは、弟子たちにだけ行われたわけですが、それは信仰的な説明です。種は神の言葉であるというような説明をなさっていますが、この説明は信仰を与えられている者にしか理解されない説明となっています。弟子たちは、信仰を与えられた者の代表ということです。信仰を与えられることによって、イエスが見ておられる見えない世界を見る目が開かれるのです。では、開かれた目で世界を見ると、どうなるのでしょうか。見えている世界がすべてではないことを知った上で、世界を見ますので、見えているものに惑わされることがなくなるのです。

わたしたちは見えているものに惑わされています。見えているものを現れるようにしている見えないものを変えることなく、現れたところだけをどうにかしようと考えてしまいます。それは草取りと同じです。根っこから抜くならば、その草はそこではもう生えることはありません。しかし、根っこを残したまま、出ている部分だけちぎると、根っこからまた出てきます。わたしたちが世界との関わりなどに対処する場合にも、同じことが起こります。見えている人間関係だけをどうにかしようとすると、根っこは変わっていませんので、同じことがすぐに起こってきます。見えている人間関係だけを考えている場合には、何も変わらないのです。見えないところで、その関係がどのような根っこを持っているのかを考えてみれば、根本的な変更が行われることになります。では、根っこを変えることが人間にできるのでしょうか。これが問題なのです。

わたしたち人間の根っこに宿っている罪を原罪と言います。この罪をなくすことは人間自身にはできないのです。イエスが別のたとえでおっしゃっているように、「悪い木が良い実を結ぶことはできない」のです。悪い木が良い木になることがないとすれば、悪い木を根っこから抜いて、焼いてしまわなければならないということになります。そうすると、わたしが悪い木であれば、わたしが焼かれて、何もなくなってしまうということです。それが手っ取り早いとも思えます。ノアの方舟の出来事において、神さまはこの手っ取り早い方法を使って、ノアの家族だけを残して、他の人間たちを滅ぼしてしまったのです。ところが、ノアの家族にも根っこは残っていましたので、その後の世界は同じことになっていきました。何も変わっていないのです。そのために、神さまはイエス・キリストをお遣わしになり、この世の罪の根を滅ぼす働きをなさった。それがキリストの十字架でした。

聖書が言う罪というものは、わたしたちが考えている罪とは違います。わたしたちが考えているのは、犯されたこと、現れた罪です。聖書が言う罪は、現れた罪ではなく、現れる前にわたしのうちに働いている罪です。イエスが別の箇所でおっしゃっているように、心の中で考えたことがすでに罪を犯したことになるのです。隠れた罪、いまだ見えてはいないけれどもわたしのうちに働いている罪。この罪の問題を教えたのがイエスでした。それで、どんなに良い人に見えても、その心のうちで考えていることは悪ですから、人間は罪人なのです。ノアの方舟の出来事の後、神さまはもはや洪水で人間を一掃するようなことはしないと言いますが、そのときこうおっしゃっています。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」と。そのような意味では、すべての人が罪人です。使徒パウロが言うように、「正しい者はいない。一人もいない。」ということです。しかし、このような見えないところを見ている人は、義人、義しい人なのです。どうしてかと言うと、神さまの前でわたしはこんな悪い心を持っていますと打ち明けているからです。悪を悪と認めることが、神さまとの関係において義しいことなのです。ただし、その悪の根っこである罪を取り除くことは、人間にはできません。それで、イエス・キリストを信じる信仰によって取り除いていただき、キリストと一つにされて新しく造られることが必要なのです。

根っこから変えていただくということは、今日のイエスのたとえには出てきませんが、神さまの世界、神の国はもともと良いものとして造られていたということが述べられていると言えます。その世界は見えないもののうちにすでに備えられている世界なのです。その世界に生かされている人間が、罪の覆いを取り除かれて、神さまに造られたように生きるとき、わたしたちは神の国に生きていると言えるのです。自然世界は神さまに造られたように生きている。それで、イエスは自然世界を神の国のたとえとして語っておられるのです。

神さまのご意志によって造られたわたしを素直に表していくならば、わたしはからし種や畑に蒔かれた種のように、わたしのうちに備えられていた神さまの望む姿が現れてくるということです。そのためには、時間がかかります。地であるイエスがわたしたちに実を結ばせるように働いてくださるのですが、すぐにそうなるわけではありません。牧師館の庭に植えてありますイチジクの木にようやく実がなり始めました。四年目です。あのぶどう園に植えられたイチジクの木のようですね。三年も何もならなかったのです。「もう一年待ってください」と園庭がご主人に言ったのですが、うちのイチジクも四年目にようやく実を結んだのです。神さまが備えたものが現れるようになるまでには時間がかかる。素直に表すことが可能となるためには時間がかかる。そのために、イエスは毎週語り続けてくださっています。イエスの言葉を聞き続けることで、必ず実を結ぶようになるのです。イエスご自身がわたしのうちで、わたしの根っこを変えてくださるように働いてくださる。これが聖餐においてわたしたちに与えられる神の恵みなのです。聖餐において、あなたのうちに入ってくださるイエス・キリストご自身が良き実を結ぶお方として働いてくださいます。感謝して、いただきましょう。祈ります。

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