「人間を見ている罪」

2024年7月7日(聖霊降臨後第7主日)
マルコによる福音書6章1節-13節

わたしたち信仰者は神を見る者です。神の言葉のみを聞き続ける者です。人間の言葉も人間の行為も、わたしがこの世で上手く生きていくために必要なものだと思っていますが、神の言葉は神の子として生きていくために必要な言葉です。この言葉を捨てて、人間の言葉や行為に流されていくならば、わたしたちはただの人間になってしまいます。神の子として神の言葉を聞き続けることができなくなってしまいます。今日の福音書では、イエスの故郷の人たちはイエスという人間を見て、イエスのうちに働いている神の言葉、神の知恵を受け入れることができなかったのです。人間を見ているという罪が、彼らをイエスから引き離してしまったのです。

人間を見るように導くのがわたしたちの原罪です。神の戒めの言葉を聞かず、自分に都合の良い言葉を選ぶ。蛇がそそのかしたとは言え、蛇の言葉を選んでしまったのは人間です。自分とアダムにとって良いと判断したエヴァの判断に、すでに罪が入り込んでいたのです。これを避けることができなかったがゆえに、わたしたち人間は原罪を背負ってしまいました。そして、今も原罪の中で生きています。人間を見ている限り、人間の言葉を聞いている限り、わたしたちは原罪の中に生きているのです。

イエスが故郷において出会った不信仰も、人間を見ている罪の結果でした。イエスの知恵を認めながらも、イエスの家族が自分たちの近隣にいるということで、ただの人間だと思い込んだ。イエスが神の子であることを認めることができず、神の言葉を義しく聞くことができなかった故郷の人たち。イエスの言葉のみに耳を傾けていれば良かったのですが、イエスの出自、イエスの家族、イエスの人間としての姿に捉われて、イエスの言葉を神の言葉として聞くことができなかった。これは仕方ないことだとは言え、哀れなことです。

預言者も故郷では敬われないものだとイエスはおっしゃっていますが、預言者の言葉も人間の言葉と判断されてしまったために、聞く耳を開かれることはなかったのです。このような哀れな状態に陥る故郷の人々に対して、イエスは驚いています。そこに信仰が働いていないことを驚いています。もちろん、彼らが持っていると思い込んでいる信仰は、彼らの夢や幻想でしょう。神の言葉を拒否したのですから、神の言葉と共に働く信仰を拒否したのです。そして、彼ら自身が信じられると思うことを信じるような人間的信仰を信仰だと勘違いしたのです。それゆえに、イエスは神の可能とする力であるデュナミスを行うことができなかったと言われています。

神の力であれば、人間がどのような状態にあるかには関わりなく、神がなし給うのではないかと、わたしたちは考えてしまうでしょう。確かに、その通りなのです。しかし、神の力を信じ、受け入れる人だけがその力を受けるのです。何故なら、あるものをあると認めるのが信仰だからです。あるものがないと思っている人たちには、信仰は働くことなく、何も起こらないということです。もちろん、わたしたちが認めるならば起こるということでもありません。わたしたちが認めることに力があるわけではないのです。ただ、受け入れるだけですから、受け入れないならば受け取ることがないというだけなのです。贈り物を贈られて、贈られたことを信じないならば、受け取らないので、贈り物はわたしのところには届きません。送り主が分からないならば、拒否しますので、受け取りません。ただ、それだけです。

信仰は、見ているもので判断しません。ヘブライ人への手紙11章において述べられているように、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのです。信仰は、見えない事実を確認するのですから、見ているところで判断しないのです。見ているところで判断するというのは、わたしに見えているところでわたしの都合で判断するということですから、わたしが基準なのです。これを信仰とは誰も呼びません。ナザレの人たちがイエスにつまずいたのも、見えているところで判断したからです。自分たちが知っているイエスが、神の言葉を語るとは思えないので、聞く耳が開かれなかった。そして、イエスが語る神の言葉の力が働くことがなかった。受け入れなかったからです。そのようになってしまったのは、彼らが人間を見ていたからです。如何なる人間なのかで、聞くか聞かないかを自分が判断しようとしたからです。言葉そのものを聞こうとはしなかったからです。

言葉は見えないのです。聞くものですから、見えない。見えないのに、見えている人間イエスを知っているということで聞くことができなくなった。イエスのうちに働いている神ご自身が語っていると信じることができなかった。これが人間を見ている罪、不信仰の姿です。

イエスが十二弟子を宣教に派遣したときにも、受け入れる人と受け入れない人とがいたようです。受け入れない人に対しては、足のチリを払い落として、証とするようにと、イエスは勧めています。関わりを持たないということです。さらに、受け入れた人に対しても、最初に受け入れてもらった家に留まるようにと勧めています。それは、もっと良い食事を提供するとか、もっと良い部屋を提供すると申し出てくるような人がいても断りなさいということでしょう。彼らは、自分のために弟子たちを使う人たちだからです。また、弟子たちが自分に都合の良い環境を選ぼうとすることを戒めたのでもあるでしょう。そのような選択は、弟子たちが自分の都合に合わせて選んでいるものです。神の言葉を伝えるのは自分のためではありません。神の言葉を純粋に聞く人を呼び出すためです。あくまで、みことばを聞く人のために神の言葉を語ることです。彼らは、最初に神によって導かれた家に、最初に受け入れられた家に留まることで、自分に都合の良い人間関係に左右されず神の言葉を宣教することができるのです。人間関係に左右される宣教は、宣教にはなりません。ただ人間関係が宣教されるだけでしょう。神の言葉を宣教することにはならないのです。受け入れる人も、受け入れられる弟子たちも、自分の都合で判断し選ぶような「人間を見ている罪」から離れるために、イエスはこのように戒めたのです。

人間を見ている罪は、わたしたちをどこまでも歪めます。まっすぐに神の言葉を聞く耳を覆い塞いでしまいます。歪んだ心で神の言葉を語るならば、また聞くならば、結局自分を受け入れてもらえるような言葉を語るだけです。また自分が聞きたい言葉だけを聞くことになるのです。

4月に新卒の牧師先生方の就任式を担当しましたが、その際に朗読される聖書、第二テモテ4章にはこのように記されています。「3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」と。人々は神の言葉を聞くのではなく、自分に都合の良いことを聞きたいのです。神の言葉は耳が痛い言葉だからです。罪を指摘し、叱り、戒め、励ます言葉が神の言葉です。そのような言葉よりも、優しい言葉を聞きたいと思ってしまう。否定的な言葉よりも肯定的な言葉を聞きたいと思ってしまう。罪を指摘するような言葉は聞きたくないと思ってしまう。イエスが地上で宣教なさったときにも同じだったのです。それが故郷の人たちの姿に示されています。

聞く耳を持たない人には、人間を見ている罪が働いているのです。自分が聞きたい言葉を語ってくれる人を選び、イエスからは聞きたいとは思わなかった故郷の人たち。彼らは、預言者を迫害した人々と同じだったのです。預言者が語った神の言葉も、社会が、そして一人ひとりが神の意志から離れてしまっていることを指摘していたのです。自分たちを裁くような言葉は聞きたくない。「平和、平和」という言葉を聞きたい。預言者たちはそのような自分の都合を優先する人たちから迫害されたのです。イエスも預言者と同じく、迫害されることになった。十字架に架けられて、殺されることになった。故郷の人たちも、ユダヤの一般的な人たちも同じだった。そして、イエスの言葉を受け入れた人たちは、社会から排除され、人間関係において見捨てられた人たちだった。そのような人々がイエスの言葉を聞くために集められてきた。これが真実だったのです。

今日、共にいただく聖餐は、このお方と同じところに立つ力をいただく食事です。人間を見ている罪から解放してくださる聖餐をいただいて、イエスの言葉を聞き続ける信仰のうちに生きていきましょう。

祈ります。

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