「拒否しない罪」

2024年7月14日(聖霊降臨後第8主日)
マルコによる福音書6章14節-29節

断らないということによって罪を犯すということがあります。受け入れるということと断らないということは違います。受け入れるというときには、自分の考えや思惑を捨てて、相手の求めることを受け入れるわけです。これは神さまの言葉を受け入れる際に起こります。イエスが「自分を捨てなさい」とおっしゃったことも、受け入れるという信仰の状態のことです。信仰は、神の言葉を受け入れます。しかし、これは神の言葉を断らないということではありません。まして、落とし所はどこかと自分の思いと神さまの思いとの調整を図ることでもありません。自分を捨てて、ただ従うことです。断らないというよりも、積極的に従うということです。

一方、断らないという場合には、積極的に受け入れ、従うのではなく、自分の思いと一致する相手に対して、断らないでそのままにさせるということです。もちろん、断らないということは、他の場合もあります。自分の思いと一致しない相手に、怖気付いている場合には、断ることができないということもあります。その場合は、相手の提示したことが自分の思いとは違っていても、仕方なく従うか、そのままにさせておくということで、断らないのです。人間関係を優先する場合にはこのようになるでしょう。このとき、その人の意志はあると言えるでしょうか。断らないことを決断した意志はあるのです。

今日のヘロデはヘロディアの娘に約束したために、しかも招待客の面前で約束したために、断ること、拒否することができなかったと記されています。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」と言われています。心を痛めたと言いながら、客の手前、拒否できなかったという言い訳が記されています。洗礼者ヨハネの首を求めたヘロディアの娘に対して、殺害を肯定するような求めを聞くことはできないと答えても良かったでしょう。しかし、彼には殺害は普通のことであって、特別のことではなかったのです。それで、自分の評判のために、世間体のために、ヨハネ殺害を許可したのです。人間は、自分の立場を守るために、殺害さえも行ってしまうということです。

ヘロデは何も考えていなかったのではなく、良く考えたのです。ヘロディアの娘の求めを拒否することで、自分は嘘つきだと言われるであろうと。ただそれだけのために、拒否しなかった。義しいことを行うために、従順であったわけではありません。義しくないことを行うことが分かっていながら、悪が行われることが分かっていながら、拒否しなかった。積極的に賛成したわけではないとしても、消極的に賛成したのです、ヨハネ殺害に。これがこの世の権力者と言われる人なのです。いえ、この世の論理に従う人なのです。この世で権力者であれば、義しいことを実行するために権力を使うことができるでしょう。しかし、ヘロデは義しくないことを行うことを拒否しないことで、自分の権力を守るのです。どれだけ、自分がヨハネ殺害を望んでいなかったと言っても、ヨハネのいのちよりも自分の権力の保持の方が大事だったということは明らかです。これがこの世の罪、原罪の現れなのです。

拒否しない罪というものは、義しいことを選択しない罪です。消極的な罪だから、自分には罪はないと言えるように思えます。仕方なかったのだと言い訳できるように思えます。確かに、表面的には消極的な罪で、仕方のない選択だと思えるかも知れません。ところが、ヘロデの心の中では、積極的に選択しているのです。言い訳というのは、表面上のものであって、実際の行動は内面的な自分の意志を行使しているのです。

わたしたちは「そんなつもりではなかった」と言い訳することがあります。他人の所為にして、「こうするしか仕方なかったのだ」と言うこともあります。実は、仕方ないのではありません。そうしたかったのです。ただ、自分の責任にしたくないために、他の人が勝手にやってしまったと言うだけです。このような言い訳は誰でもするのです。ヘロデはそのような誰でもする言い訳をしているのです。そして、ヨハネを殺害して、悲しむ振りをする。自分は、ヨハネの死を悼んでいるのだと。

ここでヘロデが犯している「拒否しない罪」というのは、誤魔化している罪です。むしろ、積極的に殺してしまえと言う方が正直でしょう。ヘロデは嘘つきなのに、義しい者であるかのように人に見せる。これが、拒否しない罪です。誤魔化しと虚偽に満ちている罪。賢く振る舞ったと思い込む罪。このような罪が、最後の審判において神の前に明らかにされる罪です。本人自身も、自分は義しい、情け深い人間だと思い込んでいるからです。

ヘロディアや娘の方が正直でしょう。ヘロディアは、ヨハネから批判されたことを赦せなかった。それで、絶好の機会がやってきたと思ったのです。ヘロデの誕生を祝う晩餐を催す絶好の機会が与えられたからです。これを「絶好の機会」と受け取ったのが誰なのかははっきりとは記されていません。ヘロディアか、ヘロデかは分かりません。おそらく、両者にとっての良い機会だったでしょう。ヘロディアにしてみれば、憎い洗礼者ヨハネを殺害できる。ヘロデにしてみれば、本音を隠して、ヨハネを殺害できる。彼らは、共に本音を隠していることができるということです。娘がおかしな願いを言ったというだけです。正常な人間であれば、そのような求めをするとは人間として恥ずべきことだと娘を諭すでしょう。しかし、彼らはしなかった。そこに自分の本音があったからです。娘も、そのような求めを勧められた母に反論することはなかった。三人が三人とも拒否しない罪の中に飲み込まれていたのです。拒否しないこと、義しいことを求めないことによって、罪が実行されたのです。

その犠牲になった洗礼者ヨハネ。ヨハネの遺体を引き取った弟子たち。彼らは被害者でしょうか。いえ、誰も彼らを被害者とは見ないでしょう。世間的には、彼らが悪い人間だったから、このような結末になったのだと言われるのです。ユダヤ教の中では、応報思想によって、悪い結果になるのはその人が悪人だったからであるということになっていました。従って、洗礼者ヨハネが神の道を義しく宣べ伝えていたとしても、最後にこのような悲惨な結果になったということで、ヨハネは悪人だったということになるのです。神さまに見放されたのだということになるのです。このような応報思想は、この世の論理に従っています。良い結果と考えられることが、この世で上手く行くことです。悪い結果と言われるのは、この世で上手く行かないことです。その両者は、この世での良さと悪さというこの世の価値、この世の論理に従って、判断されるのです。しかし、それが神の意志だとは言えません。

たとえ自分にとって悪いと思えることであろうとも、神の意志として受け入れる人にとっては起こったことは悪いことではありません。また、悪い結果と今は思えても、それが最終的結果ではないこともその人は知っています。最後の審判において最後の決定が下されるのです。だから、先走って、自分を裁いてはならないとパウロは言っています。また、他者を裁いてもならないでしょう。ただし、自分自身を戒めるために、まだまだダメなのだと自分を省みることは大事なことです。そこから新たに始めることや考え方の転換が起こるものです。最終的な神の審判を望み見る道においてこそ、わたしたちキリスト者は後ろのものを忘れて、前に向かって全身を伸ばして進むことができるのです。

洗礼者ヨハネは殺害されたとは言え、神の道を義しく宣べ伝えました。そして、殺害された。ヘロディアとヘロデのことを批判したと記されているように、義しいことを言って、疎まれ、投獄され、殺害されたのです。イエスも同じです。義しいことを言って嫌われた預言者と同じです。このような人たちの犠牲の果てに、イエスの十字架が立っています。神の意志に従うために、十字架を引き受けたイエス・キリスト。このお方がわたしたちの主です。わたしたちの神です。このお方に従う者は、たとえ批判されたとしても、この世の論理を拒否し、神の論理に従って歩み続けるのです。キリストを復活させたお方の力は、そのような人たちの上に必ず力強く注がれる。恐れることはない。あなたが義しい選択をしたことを、神はご存知なのですから。

祈ります。

Comments are closed.