「すがるべきお方」

2024年7月21日(聖霊降臨後第9主日)
マルコによる福音書6章30節-34節、53節-56節

イエスのもとに集まってきた人たちは、他に行くところがなかったかのように、執拗にイエスを追いかけています。イエスを追いかけて、病人たちを連れてきて、癒していただいている群衆。彼らは病人たちの家族やともだちでしょう。放って置けないという思いを自然に感じる人たちだったことでしょう。当時の病人たちは、神の罰を受けていると考えられてもいました。そのようなユダヤ教の考え方の中で、病人たちの苦しみは増していきました。社会から見捨てられている人たち。その人たちがイエスのところにやってきたのです。彼らの悲しみを感じて、心を痛めたのはイエスでした。彼らを癒し、いのちを回復させるために懸命になっていたのはイエスです。

病人たちには、すがるものがなかったのです。彼らを排除する社会を批判したところで、彼らの病気が治るわけではないのです。批判できる言葉もない。力もない。そのような人たちが、わたしたちの周りにもいるでしょう。しかし、わたしたちは自分の生活が守られるかどうかということに汲々としています。彼らの代わりに声を上げることで、何かが変わるのでしょうか。わたしたちにできることは何でしょうか。彼らのいのちが回復されるために、イエスの言葉を伝えることです。自分自身がいのちを回復されたように、イエスの言葉を伝える。それだけがわたしたちにできることです。イエスのように病気を癒す力はありません。でも、彼らのために、イエスに祈ることができる。わたしたちが無力であろうとも、イエスは力あるお方。イエスの言葉は力ある言葉。十字架に死んだお方イエスの言葉こそが、この世の有様を変えることができる言葉なのです。わたしたちがすがるべきお方はイエスだけなのです。

この世で苦しんでいる方と共にイエスに祈り、イエスの言葉を聞き、イエスの言葉によっていのちが回復するように伝える。わたしたちは無力さに落胆する必要は無い。イエスの言葉を分かち合いながら寄り添うのです。それは人間的な慰めとは違います。

イエスのものに触れた者は誰でも救われ続けていたと言われています。イエスのものというのは、イエスに属するもののことです。イエスの服などもイエスのものです。イエスの体そのものではなくてもイエスが身につけているものでも触れたいと人々は願い、触れて癒されたのです。ところが、今のわたしたちにはイエスの服などはありません。一方で、わたしたちにあるのはイエスの言葉です。聖書に残されているイエスの言葉、そして、イエスがどのように人々に接したかというイエスの行動を記した言葉があるのです。これらの言葉のうちにイエスが生きておられると信じるのがわたしたちキリスト者です。イエスご自身を与える言葉が一人ひとりを救う力ある言葉なのです。この言葉にこだわり続けることが、わたしたちキリスト者です。そう考えてみると、わたしたちはイエスの言葉を持っているということにおいて、イエスのすべてを持っているのです。イエスのすべてがイエスの言葉のうちにある。この言葉を伝えることが、わたしたちがなすべきことです。

飼うもののいない羊とは、病気の人たちだけではなく、現在のわたしたちもそうなのではないかと思えます。何をすれば良いのか分からないままに、途方に暮れている。わたしたちも飼うもののいない羊です。しかし、牧者であるイエスは言葉のうちにおられて、働いてくださるのです。わたしたちはイエスの言葉によって養われている羊なのです。イエスの言葉だけがわたしたちを救う力がある。これを忘れてはならないのです。

確かに、イエスの言葉だけではどうにもならないと思う人もいます。何かをしなければならないと思う人もいるでしょう。現実のわたしたちの困った状態は、わたしたちが何かを行うことで解決するのではないかと誰もが考えます。現在の少子化問題についても、政府が何も方策を行って来なかったからだと批判する人もいます。しかし、この問題に解決策を持っていると言える人は誰もいないのです。なぜなら、少子化は複合的な問題であって、どれか一つの問題を解決したとしても、他の問題を解決することができなければ、同じところに引き戻されるからです。わたしたち人間が生きている世界は単純ではないのです。複数の違う考え方があり、複数の違う世界があり、複数の環境がある。どこかの環境にとって良いと考えられて行われたことが、他の環境で通用するとは言えません。むしろ、邪魔になることもあります。そうなると、わたしたちの世界は簡単には良くなることはないのです。そして、わたしの世界が良くなったとしても、その所為で隣の世界が悪くなることも起こります。全体として良くなるということはないのです。いえ、わたしたち人間の力や知恵では全体としての世界を回復することができないのです。

神さまが世界を創造したとき、創造した一つひとつを見て、「良し」とおっしゃいました。最後に全てを見て「極めて良し」とおっしゃった。これは全体として良いということです。全体として調和を保っているという意味です。「良し」というヘブライ語はトーブと言いますが、この言葉は「美しい」とも訳されます。その美しさは「調和している」という意味の美しさです。神さまの創造世界は、最初は互いの領域を犯すことなく、調和していたということです。その調和が破壊されたのが原罪の結果です。原罪に陥った結果、人間世界においては調和ではなく、侵略戦争が行われるようになったのです。誰かが自分に都合の良い世界を作ろうとして、都合の悪い存在を排除し、追い出すことが行われるようになったのです。

現代に至るまで、わたしたちの世界の問題は、どの世界においても追い出される人たち、取り残される人たちが存在しているということです。イエスの時代にも取り残された人や排除された人がたくさんいたのです。その人たちが生きていく力をいただくことは、彼らの環境や地位が変化することではなかったのです。むしろ、彼ら自身が自分自身の内なる神の力を信頼して、歩み出すことだったのです。そのために、イエスは山上の説教でも弱さを抱えた人たちに力を与える言葉を語っています。イエスの言葉がイエスのすべてを与える言葉だったのです。癒されること、弱さを抱えながらも生きていく力を得ること。その力を持っているのは、イエスの言葉だけなのです。

使徒パウロも、自分の弱さ、自分の病気を神が取り除いてくだされば自分は完全になると思っていました。そのような思いの中で、パウロはイエスの言葉を聞いたのです。「神の可能とする力は、弱さにおいて完成されている」と。パウロは、自分が抱えている弱さ、病は、不完全さだと思っていました。それで完全になるために、弱さを取り除いて欲しいと願ったのです。ところが、弱さの中で完成されているのが、神の可能とする力なのだと、イエスの言葉が聞こえてきたのです。これはどういうことでしょうか。

パウロが不完全だと思っているところで、神の可能とする力が完成されていると言うのです。つまり、パウロの弱さがあるがゆえに、神の力は完全に現れているということです。反対に、パウロが強かったならば、神の力は現れないということです。人間の力に頼っている人は、神の力に頼らないからです。だからこそ、パウロはその後でこう言うのです。「わたしの弱さの中で、誇ろう。キリストの力がわたしの上にテントを張るために」と。弱さを与えられていることによって、キリストの力の中で生きるようにされているわたしなのだということです。キリストがわたしを包んでくださっている力に素直に包まれる。このような信仰を起こされたパウロは、自らの欠けを不完全さとは思わず、神の力がテントを張る聖なる弱さとして生きたのです。それゆえに、ガラテヤの信徒への手紙においてはこうも言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と。

キリストの言葉はこのような信仰の姿へとわたしたちを導く力ある言葉です。この言葉が、わたしたちに与えられているということが重要なことなのです。神の恵みなのです。イエスのものに触れたいと願うなら、イエスの言葉を繰り返し聞くことです。イエスの言葉と行いが記されている聖書を繰り返し読むことです。この言葉こそが、わたしたちの魂がすがるべきお方の言葉。この言葉によって、わたしたちはこの世の価値においては、取るに足りない、弱い存在とされていてもなお、神の力に包まれて、生きていくことができるのです。あなたを救うのは人間ではありません。神です。神の言葉こそが、あなたを救う力ある言葉なのです。人間の言葉に惑わされることなく、神の言葉にしがみついて生きること。そこにこそ、あなたを救う力あるお方イエスが生きておられるのです。

イエスの言葉と共にいただく聖餐は、パンとぶどう酒の上に、中に、下に生きておられるイエスをいただく神秘的な食事です。あなたの口と喉で受け取り、イエスの力によって生きていきましょう。

祈ります。

Comments are closed.