「儚さの上に溢れ」

2024年7月28日(聖霊降臨後第10主日)
ヨハネによる福音書6章1節-21節

蝉が道端に転がっているのを見て、「ああ、早いなあ。」と思いますが、蝉にとっては早くもないのでしょう。それなのにわたしたちは蝉のいのちは儚いと思います。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」と預言者イザヤは歌っています。人間も儚い存在です。人間がこの世で生きていく時間には限りがあります。草も花も限りがある。この世は永遠ではありません。限りある時間の中で古びていくのです。それを儚いとわたしたちは考えてしまいます。イザヤはそのような儚い存在を顧みる神を語っています。小さな民を顧みる神。このお方は、大きな世界を造ったお方ですから、大きい存在です。その大きな存在が、小さな民、小さな一人ひとりを顧みてくださる。それが出エジプトの民を導いた神です。

この神は、ヘブライ人たちがエジプトの苦しい生活から逃れるために、モーセを立てて彼らをエジプトから導き出したのです。このモーセを選んだ神は、燃える柴の中に現れました。燃える柴は、燃えているのに無くならないのです。ということは、燃えているように見えただけだとわたしたちは考えてしまうでしょう。ところが、燃えているのに無くならないということは、燃えても燃えても、生成されて柴は新しくなっているということなのです。それが神の名前「ヤーウェ」の意味です。わたしが生成していることをわたしが生成していると、神はモーセに名前を知らせました。それが「あってあるもの」と文語で訳されている神の名前です。燃える柴は、燃えて無くなることがない。燃える柴は、生成され続けることによって、儚さを超えて生かされているのです。これが今日の五千人の給食の出来事とつながっています。

ヨハネ福音書の五千人の給食の出来事では、あえて「草」が記されています。「そこには草がたくさん生えていた。」と。どうして草に言及されるのでしょう。草がたくさん生えているところだったというわけですが、あえてそんなことを記しておく必要などないと思えます。イエスが何を行われたのかを記すだけで良いのではないかと思えます。それなのにあえて言うのです。儚さの象徴である草の上に座る群衆は儚く脆い存在であることが表されていると言えます。そのような群衆にイエスはパンと魚を配る。モーセの荒野のマンナの出来事を思い起こすように、あえて儚い草が記されている。イエスのこの出来事が指し示しているのは、儚い存在を顧みてくださる神の恵みへと人々を導くためです。わたしたち後の読者にも神の恵みの豊かさを知らせるために、イエスは群衆を草の上に座らせるのです。

この群衆は、特に儚い存在でした。彼らにはお金もない。地位もない。名誉もない。ない物尽くしの群衆です。彼らが生かされているのは、神の恵みのゆえでしょう。彼らは自らの儚さをどう感じていたのでしょうか。神から見放されたと思っていた人たち。神の恵みは、この世の地位や名誉ある人たちに降り注がれているけれど、わたしたちは見捨てられ、排除され、取るに足りない草のような存在なのだと思っていた人たち。それでもなお、彼らは自らの存在を見捨てられたと思いたくはなかった。そこから再び再生していく道を歩みたかった。それで、イエスの許へやってきた。ところが、むしろイエスの方が彼らのところにやってきたのです。いえ、イエスもまた神によって彼らの許へ派遣されたのです。彼らとイエスとが出会うようにしてくださったのは神ヤーウェです。生成し続けるお方が、儚さの中に沈んでいる人々の許へイエスを派遣したのです。

それはまた、海の上を歩いて弟子たちの許へと来て下さったイエスにも現れています。弟子たちが、イエスを残して、船出して、困難に出会った時、イエスは海の上を歩いて彼らのところへとやってきた。そして、弟子たちがイエスを船に迎え入れたとき、船は目指していた地の上にいたのです。つまり、不安定な海の上で揺れ動かされていた弟子たちが、イエスと共に確かな地の上にいたということです。弟子たちは、ただイエスを迎え入れたのですが、そこにイエスが存在しなければ、迎え入れることもできなかったのです。イエスが「わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃった通りです。この言葉は「わたしは存在している。恐れるな。」が原意です。弟子たちが迎え入れることができるように、イエスは船のそばに存在してくださった。この出来事も、五千人の給食と同じように神の恵みが人間の儚さの上に降り注がれることを語っています。

わたしたちは、自分の儚さを感じるとき、落胆します。落胆して、前に進むことができなくなります。イエスが今日行われた奇跡は、前に進む力を一人ひとりに与えるという食べること、そして前に進む力はイエスを迎え入れることで与えられるということを示すためでした。それが儚さの上に溢れる神の恵みであることをイエスは今日示してくださったのです。

パンと魚をいただくことによって、全員が満腹した。そして、全員を満腹させてもなお溢れているものがあった。「残ったパン屑」と訳されていますが、実は「溢れたパンの欠片」という意味です。残りではなく、溢れなのです。この溢れているものこそが、神の恵みなのです。だから、無駄にならないように集めることをイエスは求めました。溢れているものは、集めて、他の人たちに配ることができるということです。残り物を配るのではないのです。溢れている新しいものを配るのです。神の恵みは残り物ではありません。与えられるたびに新しいものが生成されて、溢れているのです。イエスが与えるものは溢れる。イエスがおられるなら確かなものの上に立てられる。これが今日の聖書が語っていることです。そのために、イエスご自身がいつでもそばに来てくださるというわけです。

わたしたちは、目の前に必要なものが何もないとき、どうしたら良いのかと思います。どうやって必要なものを集めようかと考えます。そして、集めることができたとき、自分の力、人間の力を誇ることでしょう。集めた何かを与えてくださったのは神さまなのに、自分の集める力があったとか、自分の計画が上手く行ったと思ってしまうのです。しかし、集めることもそこに溢れているものがなければ集めることはできないのです。また、溢れさせるお方がおられなければ集めることはできないのです。これを忘れてしまうとき、わたしたちは神に信頼して生きることができなくなります。神を誉め讃えることもできなくなります。そうして、神を忘れていくのです。イエスはそうならないようにと、集めることを命じ、弟子たちのそばに来てくださる。この二つの出来事の中で、弟子たちは何もできてはいないのです。何事かを行ってくださったのはイエスです。イエスだけがここで働いておられる。弟子たちは、イエスを迎え入れるだけ。それだけで、確かな地の上に立つことができるのです。

迎え入れることも集めることも、イエスが命じ、イエスが「生成している」と語りかけることによって導かれているのです。「わたしだ。恐れることはない。」と訳されている言葉は、ヘブライ語の原文から考えれば「わたしは生成している。恐れるな。」とも訳すこともできるのです。つまり、イエスがすべてを生成しておられる神だということがここで示されているのです。弟子たち人間は何もできてはいない。彼らは揺らいでいるだけです。右往左往しているだけです。揺れ動く人間たちを確かなところに立てるのはイエス。揺れ動く弟子たちの否定的な言葉を聞き流して、神の溢れる恵みに導くのはイエス。このお方が儚い草の上に群衆を座らせたことは、人間の無力さを示すため。そして、神の力を見るように、彼らの心を開くため。儚さは神の恵みを受け取るための大事な儚さであることをわたしたちは受け入れるのです。そのとき、わたしたちのうちから、神の恵みが溢れて、他者へと向かう力となって行くのです。

儚さの上に座っているしかないとしても恐れることはないのです。不安になることはないのです。あなたの儚さの上に神の恵みは溢れるほどに注がれるのですから。儚い存在として、このわたしをお造りになったのは、神なのです。儚いとしても神に造られたわたしなのです。この小さな存在を、儚くも消えていく存在を、わざわざお造りくださった神の恵みの前にひれ伏す人は、神の心を迎え入れて、確かな地の上に生きていくことができます。恐れることなく、揺さぶられることなく、神の国に向かって、歩み続けることができるのです。あなたの神は真実なお方。あなたの人生を、あなたのいのちを造り導いておられる永遠なる神に感謝して、歩み出しましょう。儚さの上に溢れて、他者のためにわたしたちを用いてくださる神の恵みに感謝して、生きていきましょう。

 

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