2024年8月4日(聖霊降臨後第11主日)
ヨハネによる福音書6章24節-35節
わたしたち人間は「働き」という言葉を聞くと、何かを行うこと、何かを作ることと考えてしまいます。その「何か」は、目に見えるものでなければ確認できませんので、見えるものが「働き」の成果だと思い込んでいます。確かに、「働き」によって何か目に見える成果が現れることが、働きが有効に働いた結果だと思えるのは仕方ないことかも知れません。しかし、ヨハネによる福音書が1章1節で「初めに言があった」と述べているように、初めにあるのは見えない「言葉」なのです。
この言葉は、ギリシア語でロゴスと言いますが、言語としての言葉だけを表すものではなく、「論理」、「理念」、「事柄」などを表す言葉です。マイスター・エックハルトという14世紀のカトリックの司祭は、このロゴスを「理念」だと捉えました。すべてのものが造られる前に、最初に存在したのが神の「理念」だと述べています。この理念は、プラトンという哲学者が述べた「イデア」のことです。イデアは、英語のアイデアの語源になったギリシア語ですが、アイデアがわたしたちの頭の中に浮かんでくると、それを現実の生活の中で形にしていくことになっていきますね。アイデアがあってこそ、見える形もできていくわけです。そこから考えてみれば、理念というのは創造する神そのもののことになります。だからこそ、ヨハネは「初めに言があった。」、つまり理念があったと言うのです。
ただ、わたしたちは言葉をあまり重視していません。言うだけで、何もしない人がいるということもあるからでしょうね。公の場で言う言葉では、正しいことを語りながら、裏では隠れて反対のことをしているという人もいますね。一方で、言葉にその人の本質が現れるということもあります。表面的な言葉と内面的な言葉があります。これらは、わたしたち人間が使っている言葉です。しかし、ヨハネ福音書が言う言葉、ロゴスはこの世界を創造したロゴスですから、世界の大元にある神の理念のことなのです。神の言葉、神のロゴス、神の理念があって、世界は造られたのです。
それと同じように、働きというものを目に見えているところだけで理解しようとすると、その働きを造り出している理念が忘れられてしまいます。今日の福音書でも「神の業」という言葉が出てきますが「神の働き」のことです。その働きについて、イエスはこうおっしゃっています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と。つまり、イエスを信じることは神の働きなのだという意味です。神が信じるように働いてくださっているから、わたしたちはイエスを信じる者として生きているという意味です。見えない神の働きがあって、わたしは信じる者にされているのです。この信じる者が食べる食べ物が「永遠の命に至る食べ物」なのです。さて、その食べ物とはいったい何でしょうか。もちろん、イエスの言葉、神のロゴスのことです。
先週のヨハネ福音書6章の五千人の給食の箇所で述べられていたように、イエスが配ったパンと魚の溢れた欠片が神の恵みであることを見ようとしないことによって何かが壊れるのです。その何かとは神の恵みを見る信仰であり、神の言葉を正しく受け取ることができなくなるということでした。今日の箇所で「父である神が、人の子を認証されたからである。」と述べられている言葉とも通じることです。
「認証する」という言葉は、本来は「封印する」という言葉です。封印というのは、誰も開くことができないように閉じることです。この封印は、封じた人が封を解く権限を持っているわけです。神が封じたのであれば、神が解く権限を持っているのです。ルターは、この言葉をこのように理解しました。人の子であるイエスご自身が、パンとぶどう酒のうちに封印されたと。それゆえに、封を解いて、封じられたイエスご自身を受け取るのは、神さまが与える信仰のみであると。ここで述べられているイエスの言葉は、イエスご自身が神によって封じられた存在であるということを語っているのです。その封を解くためには、神の働きによって信じる者とされることが必要なのだということです。
ここでユダヤ人たちがイエスに問う言葉、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いに対して、イエスは「神の働きは、あなたがたが信じているということなのである」と答えたのです。何かを行うこと、目に見える何らかの成果を作ることを求めたユダヤ人たちに、イエスは「神の働きによって信じること」と答えているのです。信じることが働きだと言ったわけです。それは、人間が何かを行うことによってではなく、神が信じる者としてくださることで、「永遠の命に至る食べ物」を受けることができるという意味です。ということは、人間には何もできないとイエスはおっしゃっているのです。
それでは、どうやって信じるのかと言いたくなりますね。その問い自体が間違いなのです。信じる者が信じるのであって、信じられない者は信じないのです。人間が信じようとしても信じることはできないのです。働きも同じで、神が働かせてくださるから働くことができるわけです。神の働きがなければ、わたしは働くこともできないということを忘れてはならないのです。イエスは、モーセのマンナもモーセが与えたのではなく、父なる神が与えたのだとおっしゃっています。その神の働きを認めることができるように与えられる食べ物が、イエスご自身の言葉、ロゴスだとおっしゃっているのです。そのような者として生かされていることが「真実のいのち」なのです。
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」とイエスはおっしゃっています。世にいのちを与えるのが神のパンであり、そのために天から降ってきたのだと言うのです。それはイエスご自身のことです。イエスご自身が与えるパンは、イエスの体と血です。これについては、次週の日課とその次の日課で学びますが、先取りすれば、聖餐のパンとぶどう酒は、イエスの肉と血だということです。それを受けるためには、信仰が必要であり、また聞いて学ぶことが必要なのだということを次週以降聞いていきます。その前に、今日の最後のところでは、イエスはこうおっしゃっています。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と。イエスがパンなのです。いのちのパンとは、いのちを与えるパンということです。いのちを与えるパンがイエスご自身であるとおっしゃっているのですが、イエスが言う「いのち」とはいったい何でしょうか。
最初に理念についてお話ししましたが、理念は現れてくるものを生かす根源的な創造の力のことです。この創造の力が理念としてのロゴス、言葉です。イエスご自身がこの言葉であり、言葉のうちにいのちがあったと1章4節で言われている通り、イエスの言葉がいのちを与えるパン、いのちを生かすパンなのです。イエスご自身がいのちを溢れさせるパンであるということは、十字架で死ぬことを通して、人間の儚さの上に溢れる神の恵みを体現したお方がイエスであるということです。神の恵みがいかに働くのかを、ご自身の肉としての儚さを通して、現してくださったのがイエスなのです。このお方の肉に宿っているのは、神の言葉、神のいのちなのです。
肉としては、見える形で現れ、見える形で死んだお方。そのうちに根源的な神の理念が宿っておられたイエス。このお方を信じることは、見える形に捕らわれている存在には不可能なのです。見える形の儚さを知らない存在は、信じることには至らない。何故なら、自分で確認して信じようとするからです。人間としての自分の視点に捕らわれていますので、神の言葉を受け入れることができないのです。目に見えるもののみにこだわる視点から引き剥がされた人だけが、神の働きとしての信仰に至るのです。この信仰は目的を持っていないのです。ただ信じるのです。何かのために信じるということはないのです。信じた結果、何かを得ることもない。ただ、真理の中に開かれていくだけ。真理の中に開かれることこそが、イエスが言う「いのち」であり、この世界の見えないところで働いておられる神を認める信仰なのです。
この信仰を与えるために、イエスはわたしたち人間の闇の世界に派遣され、ご自身の肉と血をわたしたちに与えてくださるのです。そのイエスご自身を受け取るあなたはイエスのいのちが生きる存在とされるのです。あなたのうちでイエスが生きるとき、あなたはイエスご自身が用いる目に見える体として生きるのです。マルティン・ルターは、それを「一人のキリストとして生きる」ことだと言いました。ですから、キリストが働いておられるときには、あなたはあなたの意志ではなくキリストのご意志によって働かされているキリスト者なのです。そのようにキリストに働いていただくために、あなたは召されているということが、あなたがキリスト者であるということです。キリストと一つとされるために、キリストの言葉、ロゴスを聴き続ける者でありますように。
祈ります。