「聞いて学ぶ者」

2024年8月11日(聖霊降臨後第12主日)
ヨハネによる福音書6章35節-51節

みなさんには目がありますね。耳もありますね。そして、口もあります。目は何のためにあるでしょう。耳は何のために。そして、口は何のために。目と耳と口が同じように働くのはどのような働きでしょうか。口は、言葉を話すときに使いますが、目と耳と同じような働きは、話すときではなく、食べるときです。目と耳と口が同じように働くのは、何かをわたしの中に受け入れるときです。

目で見たものを受け入れる。耳で聞いた言葉を受け入れる。口では何を受け入れるでしょう。食べ物です。目は見たものを食べる口のようなものです。耳は言葉を食べる口のようなものです。そして、口は自分の栄養になる食べ物を食べます。

今日の日課では、見ることと聞くこと、そして食べることが出てきます。目と耳と口で何かを受け入れることが語られているのです。

わたしたちが「見る」というとき、ただ見ている場合と見て受け入れる場合とがあります。最初に出てくる「見る」という言葉は日本語では「見る」と訳すしかないのですが、聖書の原文では「ちらっと見る」ことと「見て認識する」ことという二種類の「見る」という言葉が使われています。36節では「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」と訳されています。こちらは「ちらっと見る」という意味です。40節では「子を見て信じる者」という訳になっています。こちらは「見て認識する」という意味です。日本語訳ではどちらも「見る」と訳されていますが、単に見ているだけなのか、良く見て考えて、受け入れているのかという違いがあるのです。

見ているだけであれば、見てすぐに忘れます。良く見て、認識して、受け入れる場合は、自分のうちに見たものが入って来て、自分のものになります。これが「聞く」という事柄であっても同じですね。単に聞いているだけであれば、右の耳から左の耳に抜けていきます。一方、聞いて、考えて、受け入れるのであれば、自分の頭で考えていますので、自分のものになっていきます。見て、認識し、信じる人は、聞いて学ぶ人と同じなのです。

わたしたちが「見る」場合、見たものを「ふーん」と言って、やり過ごすことがあります。反対に、「あれ、これは何だろうか」と良く見直すという場合もありますね。その場合、見たものについて、良く考えます。そして、見たものを認識します。「どうして、こうなっているのだろうか」と考えることにもなりますね。そのようにして、わたしたちは見たものを自分のうちに取り入れていくのです。良く考えて、見たものが何であるかを認識するとき、わたしの中に見たものが定着します。こうして、知識が増えていくのです。

また、聞いた言葉を「ふーん」と言って、聞き流す人と、「え、それはどういうことですか」と聞き返して、さらに説明を求める人とでは違いますね。「どういうことだろうか」と考えていますので、学ぶ姿勢があるということです。分からないならば、分かるまで聞き返せば良いのです。

見る場合も聞く場合も、自分が認識して、考えて、よく噛んで、飲み込むということが起こってこそ、見ているし、聞いているのです。それで、イエスはこうおっしゃるのです。「子を見て信じる者が皆永遠の命を得る」と。つまり、子であるイエスを見て、認識し、受け入れる人が「信じている者」であるとイエスはおっしゃるのです。そのように「見る」人は、イエスご自身を自分のうちに受け入れていますので、イエスご自身である「永遠のいのち」を持っていることになるというわけです。イエスご自身が、その人のうちに受け入れられているからこそ、「永遠のいのちを持っている」のです。

また、神の言葉を聞いて、学ぶ人も同じです。父なる神が教えてくださっている言葉を聞いて、考えて、分からなければ聞き返し、学ぶ人。そのような人は、「わたしのもとに来る」とイエスはおっしゃっています。イエスの許に来るということは、神さまの言葉を聞いて、学んだ人だと言うのです。どうしてでしょうか。

学ぶという事柄は、疑問を持ち、考えて、調べて、自分で理解し、受け入れるということですね。このように学ぶ人は、最終的に神の言葉を受け入れるのです。いえ、疑問を持ち、考えている時点で、受け入れているのです。神の言葉が聞こえてきたとき、つまり、みなさんで言えば、聖書を読んだとき、読み飛ばすことがありますよね。そのときには、何も心にひっかかりません。すーっと読んでいるのです。しかし、「ん?これはどういう意味だろうか」とひっかかるとき、そのときあなたは神の言葉に捉えられているわけです。そして、何とか理解しようと考えるでしょう。それでも、理解できないならば、牧師に聞くとか、本で調べるなどしますよね。そうして、受け入れていく過程を経て、自分のものにしていきます。これが学ぶということです。そのようにして、学んだことは、忘れません。このようにして、あなたのうちに神の言葉が定着するのです。そして、あなたの苦難のときに、あなたのうちに定着したその言葉があなたを支えることにもなります。それゆえに、イエスは51節でおっしゃるのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と。

生きているパンは、生きていますので、働いているのです。生きて働いているパンが天から降ってきたとイエスは言うのです。それがイエスご自身のことだと言うのです。これは、先の「見て認識する」ことと「聞いて学ぶ」ことを別の言い方で述べているのです。パンは、食べて、つまり自分で噛み砕いて、自分の体の中に受け入れます。「見て認識する」ことも「聞いて学ぶ」ことも、パンのように食べて、噛み砕いて、体の中に受け入れることと同じだということです。だから、「生きているパン」を受け入れた人の中で、生きているパンが働いてくださるのです。そのパンの働きの結果、「その人は永遠に生きる」と言われています。なぜなら、イエスご自身が永遠に生きているお方だからです。その永遠に生きているお方を受け入れた人は、永遠に生きているお方がその人のうちで働いているので、永遠に生きるのです。この生きているパンが、「世を生かすための」イエスの肉だと言われています。これが聖餐式においてわたしたちがいただくパンなのです。

今日の箇所で出てきました「見て認識する」と「聞いて学ぶ」という話とイエスの肉を食べるという話のつながりは、良く分からないと思うかも知れません。でも、学ぶためには、分からないということをまず認識しなければならないのです。分からないということが分かったとき、学ぶことが始まります。わたしたちは聖餐のパンを見て、イエスの肉だと認識するかと言えば、そうはいきません。パンがイエスの肉だとおっしゃっているけれど、本当にこのパンがイエスの肉なのだろうか。それは、どういうことだろうかと考えるのです。そのとき、わたしたちは受け入れようとしているわけです。そこから信じるということへ向かうためには、一つの壁を越えなければなりません。その壁は、分からないけれど、受け入れて見ようと越える壁です。イエスがおっしゃるのだから、受け入れて見ようと壁を越える人は、分かるようになっていきます。

アンセルムスという中世の神学者が言った言葉があります。「理解するために信じる」という言葉です。信じて、受け入れて見ると、理解するようになるという意味です。わたしたちは理解してから、信じると考えるものです。しかし、信じてから、理解するということです。それは、受け入れることによって、理解に至るということです。受け入れないうちは理解には至らないのです。これが「聞いて学ぶ」ことであり「見て認識する」ことと同じことなのです。受け入れることで、聞いたことを学ぶことができます。受け入れることで、見たものを認識することができます。それが信じるということです。なぜなら、信じるという事柄は、自分をその事柄の中に投げ入れるということだからです。そこに飛び込んだ人は理解するのです。受け入れて、その中に自分を投げ入れた人が理解するのです。そのようになる人は、神さまが引き寄せた人だと言われています。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」とイエスがおっしゃる通りです。ここに至る人は、父のお働きの中で、イエスの中へと自分を投げ入れる、つまり神さまが投げ入れさせるということです。

あなたがイエスの言葉を聞いて、学ぶ人であるならば、父が引き寄せた人です。あなたが選んだのではありません。父が選び、引き寄せたのです。そのようなあなたは、終わりの日に復活する者として、神とキリストのものとして生かされているのです。あなたがイエスの言葉を受け入れ、あなたのうちで働いておられる神さまがあなたをキリストのものとして生かしてくださいますように。

祈ります。

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