「イエスによって生きる者」

2024年8月18日(聖霊降臨後第13主日)
ヨハネによる福音書6章51節-58節

わたしたちは誰かを失ったとき、力が抜けるということがあります。落胆して、前を向くことができないという人もいるでしょう。失ってみて、その人が自分にとっていかに支えとなっていたかを知ることもあります。しかし、正反対の人もいるでしょう。失ったことは悲しいけれど、もっと一緒に生きたかったけれど、失った状態を自分の中に新たに位置付けて生きていくという人もいます。そのような人は「冷たい」と思われるかも知れません。それでも、その人はその人なのです。それが真実のその人です。変えることはできません。「冷たい」と言われたくないために、自分を見せないという人もいるでしょうが、むしろ、その方が自分にとっては可哀想なことです。自分を誤魔化しているからです。誤魔化さない生き方は隠れなくあるということ、つまり真理という言葉が意味していることです。

誰に対しても隠れることなく、変わりなく目の前にあること、それが真理です。今日の福音書でイエスがおっしゃる「まことの食べ物」、「まことの飲み物」というのは、イエスの肉と血のことですが、誰に対しても隠れなくある食べ物、飲み物のことです。しかし、この真実の食べ物と飲み物が存在するのは、一つの神の働きに与るためです。その一つの神の働きというのは、終わりの日にわたしたちキリスト者を復活させることです。そのための食べ物と飲み物であるイエスの肉と血を与えることを通して、実現する神の出来事でもあるのです。ここで「まことの」、「真実の」という言葉が語っているのは、この食べ物と飲み物でなければならないという意味です。イエスの肉と血だけが終わりの日にその人を復活させるのです。他のものではそうなることはあり得ないという意味で「まことの」と言われているのです。

この「まこと」という言葉は真実という言葉ですが、この言葉が指し示している事柄には、もう一つの側面があります。それは、「生きる」ということの真実に関わる問題です。

わたしたちが生きるということは、端的に生きることです。真実に生きている人は、生きることに付随するものを求めることはありません。自分の名誉や栄光を求めることはないのです。一般的に人間は、名誉や栄光を求めます。名誉を与えられれば、自分の価値が認められたとうれしくなります。そして、名誉を汚すようなことはしないように努めることになるでしょうし、もし名誉を汚すことをしてしまった場合には、隠すことになるでしょう。隠すことは真実ではありません。イエスが別の福音書でおっしゃっているように、隠れているものは必ず明らかになってしまうのです。

そのように考えてみれば、真実の食べ物を食べて、真実の飲み物を飲む人は、隠れなく生きることになるのです。なぜなら、この世の名誉を求めることがないからです。この世に受け入れられるように本当の自分を隠して生きるということは到底できないのです。本当のことを言うので、冷たいと批判されることもあるでしょう。厳しいと言われることもあるでしょう。それでも、社会から受け入れられないとしても、自分を誤魔化して生きることはできないし、したくないのです。

第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対して、そんなことはできないと人間としての真実に生きた人たちがいます。彼らは、ユダヤ人たちをナチスに通報することはせず、ユダヤ人たちをかくまって、彼らが生きることができるように助けました。彼らは自分の人間としての真実に生きたのです。

そのような人が、終わりの日に起こされる人であり、真実の自分の罪深さも神の前に晒している人です。その人たちは、真実の食べ物と飲み物によって、真実に生きるように養われています。イエスの肉と血がその人を真実に生かすいのちとなっているのです。イエスだけがその人を生かすお方であると信じていますので、イエスだけに従っていく人、「イエスによって生きている」人なのです。

イエスはこうおっしゃっています。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」と。イエスが父なる神によって生きているということは、父だけがイエスを生かしているということです。そして、イエスを食べる者を生かすのは、イエスだけであるということです。わたしたち人間が、この唯一の関係を生きるために、イエスはこの世に来てくださったのです。

しかし、ある人はこう言うでしょう。「イエスを食べなくても、わたしはちゃんと生きている」と。そうですね。イエスを食べていない人でも生きています。イエスと議論しているユダヤ人たちもそうです。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と彼らは議論していますが、この議論は食べさせることが可能ではないという前提からの議論です。ですから、食べなくてもユダヤ人としての信仰を持って生きていると彼らは考えているのです。これに対して、イエスはこう答えています。「先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と。確かにイエスご自身を食べなくても普通に生きて、普通に死ぬのです。しかし、イエスご自身を食べる人は、永遠に生きると言うのです。その食べ物が生かすいのちの次元が違うのだと、イエスはおっしゃっているわけです。

永遠という言葉が意味しているのは、終わりのない時間だとわたしたちは考えてしまいますが、実は時間の流れに縛られていないということです。わたしたちは時間に縛られています。死ぬ時が来ることを恐れて生きています。最初にお話ししましたように、身近な人を失ったとき、わたしたちは自分の死を考えることになります。自分も死ぬべき存在なのだと考えるようになります。死を恐れてしまうと、生きている時間が窮屈になっていきます。しかし、死を恐れることのないいのちを生きているならば、自由です。この世のいのちが死を迎えたとしても、それも神さまの時として受け入れていくでしょう。その人は、この世を超えた次元で生きているのです。イエスがおっしゃるように、終わりの日に起こされることを信じています。この世の時間に縛り付けられていないので、いかなるときにも自由に生きることができる。そのように生きるために、イエスによって生きるという信仰的な生が与えられるのです。

イエスによって生きるということは、イエスが生きたように生きるということです。イエスと同じように、十字架に死んだとしても生きていると信じているのです。この信仰に生きることができるのは、イエスがその人のうちに生きているからです。イエスのいのちがその人を促しているからです。心配する必要はないと励ましているからです。あなたは、わたしと同じように生きるのだと励ましてくださるイエスがその人のうちに生きておられるのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」とイエスがおっしゃる通りです。

わたしたちキリスト者は、いつもイエスがわたしのうちにいる存在なのです。そのための真実の食べ物、真実の飲み物が聖餐というサクラメントを通して、あなたに与えられます。聖餐のサクラメントを通して、あなたはイエスによって生きる者とされるのです。この食事は、信仰的な食事ですから、サクラメント的とルターは言いました。この食事を通して、サクラメントそのものであるイエスご自身をいただくという意味です。イエスの言葉とパンとぶどう酒が一つになることによって、イエスの肉と血という新しい実体が創られると、アウグスティヌスは言いました。イエスの言葉がパンと葡萄酒と共にあるとき、新しいいのちが創造されるのです。ですから、イエスの言葉を受け入れなければ、ただのパンとぶどう酒です。イエスの言葉と結びついた食事によって、イエスの言葉があなたのうちにいのちを創るのです。あなたのうちにイエスがいつもおられる新しいいのちがあなたのうちに生き始めるのです。この食事によって、わたしたちはイエスのうちに生きる。イエスがわたしのうちに生きる。イエスと一つとなって生きるわたしとなるのです。

そのとき、時間に縛られることのないいのちが、あなたのうちに生きるのです。あなたはイエスが生きる体として自由を生きることができるのです。イエスがあなたのうちに受け入れられ、あなたのいのちとなっているならば、イエスと同じように、この世の時間には縛られていません。だから、あなたは自由です。真理そのものであるイエスご自身があなたのうちに働いて、あなたが縛られているところから解放してくださる。そのように働いてくださるいのちのパンがあなたを生かしていくのです。感謝して、いただきましょう。

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