「後ろに向かう罪」

2024年8月25日(聖霊降臨後第14主日)
ヨハネによる福音書6章56節-69節

わたしたちの生きている時間には、前と後ろがあります。前は未来、後ろは過去。今を生きているのがわたしです。その今は過去から未来へと動く点のように時間の流れを移動しています。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章13節でこう言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、「目標を目指してひたすら走ることです。」と。使徒パウロの在り方は、未来に向かう在り方です。反対に、「うしろを見る」という場合は、過去に捕らわれる在り方です。創世記19章26節で、ソドムの滅亡から逃れたロトの妻は出てきたソドムの町を振り返って、塩の柱になったと言われています。イエスもまたルカによる福音書9章62節でこうおっしゃっています。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と。後ろを見るということには、神さまに従うことから離れてしまうという考え方が、聖書にはあるのです。

今日の聖書においても66節で「後ろのことたちへと離れて行った」と記されているのですが、新共同訳では省かれています。神の事柄は前に向かわせる力、そこから引き離すのは、後ろを見るようにさせる力。これら相反する二つの力のどちらに従うかは、最初から予定されているとイエスはおっしゃっています。64節にはこう述べられています。「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」と。「最初から」とは、この世の初めからという意味です。この世の初めから、予定されていると言うのです。信じる者、信じない者、裏切る者が初めから存在しているとイエスはおっしゃっているのです。これを予定論と言いますが、決まっているわけではありません。そこから、脱け出すこともあり得るからです。また、そこにはまり込むこともあるのです。それが未来を見るか、過去を見るかによって変わってくるのです。

弟子たちの多くの者がイエスから離れていったということが明らかになったときに、その人たちは初めからそのように予定されていたと言われているのです。イエスは、前に向かって歩き続けています。しかし、離れて行く弟子たちは、そこで歩みを止めて、後ろへ引き下がってくのです。過去に戻っていくということです。前に向かっていくことで、困難が予想されるとき、彼らは前に向かうことなく、後ろに向きを変えて、過去の良かったときに戻っていくということです。これが、出てきたところを振り返ることであり、鋤に手をかけてから後ろを振り返る人間の原罪の姿です。こうなってしまったのは、イエスの言葉が固いものだったからだと60節では述べられています。

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と新共同訳は訳していますが、「ひどい話」と訳されている言葉は、「固いものとして存在している、この言葉(ロゴス)は」が原文です。「固い」ということは自分の口で噛み砕くことができないという意味ですから、理解できない言葉だということです。多くの弟子たちは、自分が理解できない言葉を語るイエスを捨てて、理解できる後ろのことたちへと離れて行ったのです。使徒パウロも第一コリント3章で言うように、固いものを食べることができない信徒たちが自分で固いものを食べることができるまでは、乳を飲ませるのです。しかし、ずっと乳を飲むわけにはいかない。いつかは、自分の口で噛んで、飲み込むというところに至らなければならない。しかし、そうできないということは、未だ肉の人だからだとパウロは信徒たちを嘆いています。反対に、霊の人は自分で噛んで飲み込むことができる人なのです。それと同じように、ここでイエスを離れて、後ろに戻っていった人たちは、固いものを食べることができずに、そうなってしまった。それについて、イエスは初めからそうだったのだとおっしゃるわけです。これを変えることができるのは、神だけです。

「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と65節でイエスが言う通り、イエスの許に来るという心を父なる神がその人に与えている人だけが来るという意味です。父なる神が初めからイエスに与えてしまっている人が存在しているということです。さまざまな思いで、イエスの許へとやって来た人たちがいたわけですが、最終的にイエスの許に残るのは、イエスの許に来る心を父なる神がその人に与えているからであるということです。それが、十二弟子たちでした。しかし、彼らの中にも、イエスを引き渡す人、いわゆる裏切る人がいるということも父なる神がその人に与えていることなのです。その人も後ろに向かう人でした。そのような生き方から脱け出すには、神の意志に従う信仰を受け取る必要があります。その信仰の告白が、ペトロが言う言葉に表されています。

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」、「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」という二つの告白です。このように告白するペトロは自分の思いで告白しているわけではありません。むしろ、神が告白させているのです。「永遠のいのちの言葉」、「神の聖者」ということを認めて告白するということは、目の前にいるイエスを人間としては見ていないということです。イエスの言葉が単なる言葉ではないということ以上に、「永遠のいのち」である言葉だと言うわけです。さらに「神の聖者」とは、神の聖なる働きのために生きておられる方という意味です。人間であるイエスを見て、こう述べているわけではなく、イエスの本質を見て、こう述べているのです。ということは、ペトロは人間を見る罪から離されているわけです。それで与えられた信仰によって、イエスを知り、告白しているのです。ペトロは自らのうちに働いている神の働きによって信じる者とされているということです。だからこそ、人間的には固い言葉であろうとも、弟子たちは霊的に理解し、受け入れ、従うことができるのです。

わたしたちも神の言葉を聞く際に、人間的な理解で終わってしまう人と、霊的にその本質的意味を受け取る人とに分かれます。人間の言葉を聞く際にも同じことが起こります。その人が語っている言葉が固くて理解できないために、理解できるところだけで聞いてしまい、間違って受け取るということが起こるのです。また、自分たちを肯定してくれる言葉ならば受け入れるけれど、否定するような言葉は受け入れたくないと拒否することにもなります。それが多くの弟子たちでした。理解できないということは理解したくないということです。それで、聞いて受け入れることができないということになったのです。これは、その人たちが最初からそうだったからです。どのようにしても、理解できない、固い言葉としてしか聞くことができない。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と63節でイエスがおっしゃっている通りです。

肉は何の役にも立たないのです。人間的にしか理解できない人は、イエスの言葉を聞いても、役に立たない肉の心で聞くのです。霊的に生かされている人は、霊の心で聞くのです。そこにおいて、違いが生まれます。肉の人が霊の心で聞こうと思っても聞くことができないのです。初めから肉の心しかないからです。これは仕方ないことでしょう。父が働いておられても、素直に受け入れないからです。信仰を受け入れていなければ、何も聞くことができない。このような人たちが、後ろのことたちへと目を向けてしまう人たちです。

前方には苦難があるとしても、前に向かって全身を伸ばして行くのか。あるいは、後ろにあった居心地の良い場所に戻ろうとするのか。前者は苦難を引き受けるイエスの心で生きて行きます。後者は自分が判断する良い場所を求めて、イエスから離れていきます。そして、脱け出したはずのところに戻ってしまうのです。

イエスの言葉、創造のロゴスは、固い言葉です。固い言葉はすぐに柔らかくなりません。何度も噛んでいれば、少しずつ柔らかくなる。固いからと言って、噛むことを止めて口から出してしまうならば、「永遠のいのちの言葉」を捨ててしまうことになるのです。そのために、イエスはご自分の体と血である聖餐を通して、わたしたちのうちに入り、働いてくださる。わたしたちが、イエスの言葉を「永遠のいのちの言葉」として受け入れ、イエスに従って前に向かって進むことができるようにしてくださる。イエスは、わたしたちのためにご自身を与えてくださるのです。あなたのうちで、イエスご自身が働いてくださる固い食物こそ、神の賜物、「永遠のいのち」なのです。この無償で与えられた固い食物、永遠のいのちの言葉を噛み続けましょう。あなたを霊的に生きる者にするイエスの言葉に留まり続けましょう。あなたのために、ご自身を与えてくださるお方の真実な食べ物、イエスご自身の言葉があなたを永遠に生きる者としてくださいます。

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