2024年9月1日(聖霊降臨後第15主日)
マルコによる福音書7章1節-23節
わたしたち人間には内側と外側があります。外側はわたし以外の人が見ることができます。内側はわたししか見ることができません。この外側と内側が同じかと言えば、同じではないですね。内側で考えていることを外側にそのまま表してしまうと、「傷つけられた」と言われることにもなるでしょう。ですから、気をつけて言葉や行動を考えることになります。もちろん、内側と違うことを外に向けて行うわけですから、気をつけていなければ「傷つける」ことも起こるでしょう。そして、批判され、潰される。批判する人でも同じ心があるにも関わらず批判するものです。それが、今日弟子たちの行動を批判している人たちの姿です。いえ、彼らだけではなく、人間という存在は誰であろうと、自分の内側にも同じ悪が存在していることを知っているはずです。しかし、自分の悪い思いは隠しておいて、あるいは見ないようしておいて、他者の悪を糾弾し、自分の外側だけは良く見せようとするものです。
そんな人間の心に12個もの悪しき思いが満ちていると、イエスはおっしゃっています。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が人間の心に満ちているのだと言うのです。これだけの悪い思いがわたしたち一人ひとりの心に溢れている。一つひとつ考えてみれば、確かにそうだと思えます。これらの悪い思いは、すべて他人から何かを奪う心です。不純な思いです。そのような悪い思いが心に満ちているのに、神さまの前では信仰深いように見せているというわけです。その典型的な姿として述べられているのが「コルバン」の話です。この話は、本日の日課からは省かれているのですが、マルコ福音書7章10節から13節の言葉です。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と。ここで最後に言われている「無にしている」という言葉は、「権威なきものにしている」という意味です。神の言葉の権威をなきものにしているとイエスはおっしゃっているのです。ということは、コルバンと言っておけば、親に何もしなくて良いと言っている人たちは、神の言葉の権威の下に立ってはいないということです。彼らは自分が神の言葉を好きなように変えることができる権威を持っていると主張していることになります。
彼らの心にも12個の悪い思いが満ちています。その悪い思いが彼らの中から出て来て、彼らを汚すとイエスはおっしゃっていますが、「汚す」という言葉は「不純にする」という意味です。純粋であるはずの神の言葉が不純なものになるということでもあるでしょう。純粋な神の意志を伝える神の言葉を権威のないものにして、自分が守らなくても良いようにして、結果的には自分自身を不純にするということです。
神の言葉は、わたしたちのうちにある悪い思いを純粋にするために語られています。わたしたちの不純さを純粋にするために、神さまはわたしたちのうちで働こうとしてくださっている。しかし、その神の言葉の権威を奪って、わたしたち人間が権威を奮っている。その結果、自分自身を不純にするとイエスは批判しているのです。この批判は人間の原罪の本質をついた批判です。わたしたちは、批判されると批判する人が権威を振り回していると非難するものです。イエスを批判した人たちも、イエスが神の権威によって語った批判の言葉を聞いて、イエスが権威を振りかざしていると思ったのです。イエスはただ神の言葉を語っただけなのに。
神の言葉はわたしたち人間の不純さを純粋さに変えるために語られています。それにも関わらず、わたしたちは批判されていると思い、自分を否定されたと非難します。イエスが「自分を否定して、自分の十字架を取れ」とおっしゃったにも関わらず、自分を否定する神の言葉には愛がないと思い込むのです。神さまはわたしを愛しておられるからこそ、あえて自分を否定するように語っておられるのに、そう思うのです。イエスが言う「自分を否定する」ということは、ここで述べられている12個もの悪い思いが溢れ出してこないようにするために必要なことです。そのために、神の言葉が語られているのです。ということは、神の言葉はわたしたちを純粋にするものだと言えます。神の言葉は、わたしたちのうちに入って来て、わたしたちを純粋にしてくださる神の働きなのです。わたしたちが純粋にされたとき、信仰を生きることになるのです。
わたしたちが純粋にされるとどうなるかと言えば、これらの12個もの悪い思いが確かにわたしのうちに満ちていると認めることになるのです。そのとき、わたしたちは純粋に自分自身の心を見つめていると言えます。他者を批判する心には、12個もの悪い思いが絡み合っています。その心に満ちている悪い思いを認めることなく、他人にだけそれらがあると思い込んでいます。しかし、わたしたちが純粋に自分を見るとき、わたしは罪人であると認めることになるのです。つまり、わたしたち人間の純粋さは、罪人である自分を認める純粋さだと言えます。反対に、わたしたちの不純さは、罪人である自分を誤魔化すために、神の言葉の権威を奪い、言葉を薄めて不純にしてしまうということが、コルバンの話でイエスが指摘していることです。
わたしたちが、内側と外側を一致して生きるのは、わたしの罪を認めることしかないのです。なぜなら、わたしたちのうちには悪い思いが12個も詰まっているからです。外側に悪い思いを見せないようにして、自分は悪口を言ったことがないとか、自分は迷惑を被っている側で加害者ではないと言う人もいますが、人間である以上そのようなことはないのです。誰でも、内側には悪い思いが満ちています。外側でどれだけ良い人のように見せていても、内側は変わっていません。もし、外側に表さないようにしている人がいたとしても、内側は同じ悪い思いが満ちている。イエスはそうおっしゃっているのです。ですから、わたしたちが純粋に生きるとすれば、内側に満ちている悪い思いを認めることしかないのです。
今日の聖書を読んで、ファリサイ派や律法学者は悪いやつらだと思う人がいたとすれば、その人は自分を純粋に見てはいないということになります。イエスは、ファリサイ派や律法学者を批判してはいますが、彼らだけではなく弟子たちの心のうちにも同じく12個もの悪い思いが満ちていることを教えているのです。だからこそ、イエスは「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と言うのです。「人」と訳されている言葉は「人間」という意味です。人間というものは、人間の中から出てくるものによって、人間という存在を不純にするとおっしゃっているのです。人間とは、誰かのことではなく、人間全体のことです。そして、人間だと思っているわたしのことです。
人間であるわたしの中から出てくる不純で悪い思いがわたしを不純にするだけではなく、周りの人間も不純にするということです。わたしたちはお互いに不純をまき散らしながら生きているのです。これらの12個の悪い思いによって、何かの被害を被ったという場合に、被った人は同じように悪い思いを起こされて、相手に対抗してしまいます。こうして、悪い思いがわたしたち人間の間に広がっていくのです。
このような罪深いわたしたちのために、イエスはご自身を与えてくださる聖餐を設定してくださいました。聖餐を通して、わたしたちのうちへと入ってきて、わたしたちを純粋に生きるものにしてくださるのはイエスご自身です。イエスは内側も外側も変わることなく、純粋に神の言葉に従ったお方です。その結果、十字架で殺害されてしまいましたが、最後まで神の意志に従い続けたのです。このお方が、わたしのうちへと入ってくださることで、わたしは純粋に生きるように導かれていきます。洗礼を受けたから純粋になっているわけではありません。罪人であるわたしはすぐに純粋になることはない。すぐに、神の意志に従うようになることはない。少しずつ、少しずつ、変えられていくのです。イエスご自身がわたしのうちへと入って来てくださって、変えられていくのです。この恵み深い神の贈り物を感謝していただきましょう。あなたを純粋にするものであるイエスご自身と一つにされていきますように。