「火と塩と戒めと」

2024年9月29日(聖霊降臨後第19主日)
マルコによる福音書9章38節-50節

わたしたちは、人が上手く行っているのを見ると妬ましくなります。何とか上手く行かないようにできないだろうかと思うので、ネットなどでその人の過去の過ちを暴いてやろうとする。このような妬みが現代のネット文化を作っています。今日の福音書でもイエスの直弟子たちはおそらく妬みを抱いたのでしょう。

今日の福音書では四つの話が語られています。弟子たちに従わない人の話。イエスの名において、弟子たちに水を与える人の話。躓かせないために、手や足や目を片方取り除く話。そして、塩を持っているようにとの勧め。これらの話は別々の話なのでしょうか。マタイがここにまとめて置いているということは、つながりがあるということでしょう。イエスが語っておられるのは、最後の言葉の通り戒めとしての塩を持っていなさいということなのです。「あなたがたは持っていなさい、自分自身のうちに、塩を」とおっしゃっているイエスの言葉を土台として、従わない人の話も、水をくれる人の話も、片方だけになる話も語られているのです。

49節ではこう言われています。「人は皆、火で塩味を付けられる。」と。ここで「火」という言葉が出てくるのは、48節で「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」と言われているからです。消えることのない地獄の火によって、すべての人は塩味をつけられるということです。その塩を自分自身のうちに持っているようにとイエスは勧めています。

自分自身のうちに持っている塩とは、自分自身を躓かせるような、わたしの手、わたしの足、わたしの目が片方だけになったとき、その手や足や目がわたしの戒めとして働くということでしょう。「他の人を躓かせることがないように」そうしなさいということではなく、自分を躓かせないためにとイエスは勧めています。それは自分が傲慢になって、神などいなくても大丈夫だと思い上がることを戒める「塩」としての働きだと言えます。そこで躓いた自分自身が他者を躓かせることになるのです。躓きとは、聖書においては神から引き離す力のことです。その力が働いているのが地獄です。地獄において経験するであろう火による苦しみを表すような戒めとしての塩を自分自身のうちに持っていなさいとイエスは勧めておられるのです。

このイエスの勧めを真面目に受け取る人がいるかどうかは分かりません。地獄など想像の産物で、死んだらそれで終わりだと思う人もいるでしょう。そのような人にはイエスの言葉は何の効果も発揮しないと言えます。地獄を信じないとすれば、地獄の火の話も関係なくなります。そして、自分の力で何でもできるのだと思うでしょう。水を一杯くれたからと言って、誰が有り難がるだろうかと思う人もいるでしょう。そのような人は、自分に従わない人間は追い払ってしまおうとするということになる。それが、自分たちに従わない人が行っている癒やしの働きを弟子たちが止めさせたことに現れているのです。

それに対して、イエスがおっしゃっているのは、弟子たちに従うことではなく、イエスに従うことです。わたしたちキリスト者はそれぞれにイエスに従う者として生きているのです。集団になってイエスに従わなければならないのではありません。一つの集団に入って、イエスに従わなければならないということでもないのです。一人ひとりがイエスに従うのです。

わたしたち人間は集団を作りたくなります。集団の人数が増えると勢力が増えて、社会の中での認知度が上がると考えるものです。集団の力が増していくと、集団による圧力が生まれます。集団の圧力が人を強制することで、集団がさらに大きくなるということも起こるでしょう。しかし、それがイエスに従うことなのでしょうか。集団の圧力に従っているだけであって、イエスに純粋に従うことにはならないでしょう。イエスに従う者は、ヨハネ福音書が語るように、父が引き寄せてくださった者なのです。集団が強制した者ではないのです。

さらに、集団が強くなるならば、集団をまとめている代表者の力が増すことになります。その代表者が自分の考えに従わない者を排除するということも起こります。そうすると、イエスに従っているのではなく、その代表者に従っている集団が生まれます。コリントの教会で起こっていた分派もこれと同じです。これではイエスに従うことにはならないのです。人間に従っているだけだからです。

それで、イエスはおっしゃるのです。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」と。この言葉が示しているのは、イエスの名を土台として生きている者は、イエスの悪口を言うことはないし、イエスに反対することもないということです。イエスの名を土台として生きるということは、イエスご自身に従って生きることです。イエスに支えられて生きることです。ですから、自分の力を誇ることはないのです。自分がイエスに用いられて行った働きを、自分の成果だと誇ることはないのです。イエスの御名を誉め称えるだけです。そのように生きている人だからこそ、イエスの名を使って癒すということも可能なのだとイエスはおっしゃっているのです。そのような人の働きを止めさせようとする弟子たちは、イエスの名を土台として生きてはいないということになる。イエスの名を誇る人であるならば、他者がイエスの名を誇る働きをしていることも喜ぶだろうということです。そこには妬みはないのです。

妬んでいる弟子たちに対して、イエスは水の話をしています。それは、あなたがたも一杯の水をもらうことがあるだろうと思い起こさせているのです。あなたがたも他者によって支えられた経験を思い起こしなさいと勧めているのです。あなたがたに水を飲ませてくれた人が、自分たちに従えと言ったかどうか考えてみなさいとおっしゃっているようです。喉が渇いているときに水を飲ませてくれた人が、その見返りとして、彼らの言うことを聞けと言ったであろうかと。わたしの名のゆえに水を与えてくれたのではなかったかと。そのようなことを考えてみれば、人間に従わせようとすることは、人間を躓かせることになるとおっしゃっているのです。しかも、そこで躓くのはあなた自身なのだとおっしゃっているのです。その躓きとは、自分の力に頼って、神に祈ることも信じることもなくなるということです。また、他の人を人間の力に頼るように導くことにもなるということです。そのようなことを勧めるあなたは、自分の手や足や目を片方取り除いて、自らの戒めとしなさいとおっしゃっているのです。

二つ与えられている手や足や目が片方だけになるとすれば、それで生きていくことができないわけではありません。しかし、不自由になる。不自由になることで、何かの働きを行うときに、不自由さを感じることになるでしょう。そして、その不自由さがわたしの戒めとして働くということでしょう。それは、また地獄の火によって塩味をつけられることでもあるとイエスはおっしゃっているのです。

しかし、弟子たちもイエスに従っていると思っていたのです。彼らは、自分たちが妬みに支配されて、傲慢になっているなどとは思ってもみなかった。人間は誰しもそうですね。それでは、地獄を信じないことと同じく、自分が躓いていることさえもわたしたちは気づかないということになります。イエスが手足や目を片方だけにしなさいとおっしゃっても、切り離そうとする人はいないでしょう。では、どのようにして気づくのでしょうか。

最後に語られているこの塩味を持っているようにとの勧めは、自らを守るための戒めを自分のうちに持っていなさいということです。この戒めを持っているならば、わたしは自分の傲慢さを戒められ、謙虚にされるでしょう。謙虚にされたわたしは、戒めてくださるお方によって、愛されている自分を知る。厳しい神の言葉を暖かい言葉として聞くことにもなります。神の言葉は愛に基づいた戒めなのです。それが塩です。この塩を自分で持つことなどできないとすれば、どうすれば良いのでしょうか。別の塩が必要になります。その別の塩とは、イエスの十字架です。

イエスの十字架は、神の愛であり、わたしの戒めです。わたしがイエスを十字架に架けた人たちと同じ人間であることを示すのが十字架であり、そのような人間たちを包む神の愛を語り掛けるのが十字架なのです。十字架を見上げるとき、わたしたちは自分自身の罪深さはイエスを十字架に架けた人たちと同じだと知らされます。どれほど小さなものであろうとも妬みは、あの十字架を起こしてしまうのだと知らされます。十字架はわたしの塩です。この塩は一人ひとりが自分自身のうちに持っているものです。他人に対して、この塩を持ちなさいとわたしたちが言うのではありません。あくまで、イエスがわたしにおっしゃるのです。あなたのために、塩として働いてくださるイエスの言葉を忘れることがありませんように。イエスがご自身の体と血を与えてくださる聖餐を通して、あなたのうちなる塩として、あなたのうちで働いてくださいます。感謝していただきましょう。

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