2024年10月6日(聖霊降臨後第20主日)
マルコによる福音書10章2節-16節
わたしたち人間には主体性というものがあります。わたしはわたしの行動の主体であるということですが、人に動かされている人には主体性はありません。主体性のない人は、人の顔色を伺って、その人が気に入るように行動します。人の顔色がその人を動かす主体になっているわけです。このような行動を取っているとしても、周りに配慮する人だと言われることもありますね。周りに配慮する人は主体的に配慮しているのか、嫌われないために動いているのか、これを見分けることはなかなか難しいものです。今日の弟子たちの行動はどちらでしょうか。おそらく、イエスの気持ちを配慮しての行動だったのでしょう。配慮するということは、自分で何が義しいことであるかを判断していないということです。わたしたちの行動がどこから来ているのか、わたしの行動の主体はどこにあるのかということが人間の問題なのです。
今日のイエスの言葉は二つあります。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」という言葉と、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」という言葉の二つが表している事柄です。これら二つの言葉が表していることは実は一つの事柄です。神は一つにするお方であるということです。これが示しているのは、その反対に人間は引き離す存在であるということです。
わたしたち人間は、弟子たちのように自分たちにとって、あるいはイエスにとって迷惑だろうと思われる存在を、邪魔なものとして排除しようとします。こどもたちをイエスの許へ連れてくることがどうして邪魔だったのかは述べられていません。分かっていることは、弟子たちは大人とこどもを分けたということです。大人がイエスの許へ来るだけであれば認めたのでしょう。弟子たちは、こどもを連れてくることに反対したのです。しかし、イエスはその弟子たちを叱り、こどもたちがイエスの許へ来ることを妨げないようにとおっしゃった。どうして、イエスはそのように叱ったのでしょうか。それは、こどもたちをイエスの許へ来るようにしておられるのは神だからです。こどもたちの主体は神だとイエスは見ておられるのです。
この神のご意志に従って生きることが、イエスの生き方でした。この生き方は、十字架を引き受けたゲッセマネの祈りにおいて良く示されています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とイエスは父なる神に祈りました。イエスの願いではなく、父なる神の意志が行われるようにと祈ったのです。この神の意志は、イエスにとっては十字架を意味していました。その杯を避けたいというイエスの意志があったのです。それにも関わらず、イエスは十字架が神の意志であるならば受け入れると祈っているのです。
神の意志と人間の意志の隔たり。これは、離縁状の問題でイエスが言う言葉にも表れています。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とイエスはおっしゃっています。男と女を一体にしてくださったのは神なのです。そのお方が一体とした男と女を人間が引き離すことが離縁状の問題なのです。これは人間的な問題処理の方法だからです。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」とイエスはおっしゃっています。あなたたちとは男のことです。男が自分に都合が悪くなって妻を離縁することに対して、男の心が頑固だからだとイエスはおっしゃったのです。これが人間の男の問題です。
頑固な人間の男たちが女性を勝手に追い出すことができる。神が一体にしてくださったにも関わらず、人間が一つの体を引き裂いて、引き離してしまう。このような行為が神の意志を引き裂くことだとは思ってもみない。これが人間の男の問題だということですが、神がなし給うたことを人間的な思いで引き裂くことは男性だけではなく、女性にもあるものです。しかし、今日の日課では主に男性の問題が述べられています。こどもを連れてくることへの禁止も男である弟子たちの判断です。一方で、イエスの判断は、こどもたちが来ることを許しなさいという判断です。こどもたちにイエスの許へ来る思いを起こしておられるのは神だからです。そして、イエスとこどもたちを結びつけてくださっているのは神だからです。神の意志がそこにあるとイエスは受け入れ、神の意志に従っている。これを妨げるのは、人間の男の思いだということです。
しかし、男の問題だと限定することもできません。こどもたちを連れてくることを許しなさいとはイエスはおっしゃっていないからです。母親がこどもたちをイエスの許へ連れてくることではなく、こどもたち自身がイエスの許へ来るということを肯定しているのがイエスの言葉なのです。ということは、こどもたちの主体性を大事にしたということです。こどもたちのうちにイエスの許へ来る思いを起こした神に従うということです。だからこそ、母親が連れてくることではなく、こども自身が来ることを許すようにとイエスは言うのです。
わたしたち人間のうちに起こる思いは、さまざまです。その思いは向かっている対象と結び付けられています。思いを持っているその人と対象とが結び付けられているのです。そうしますと、母親がこどもをイエスの許へ連れてくるとすれば、母親とイエスとが結ばれているのです。こどもとイエスではありません。ですから、イエスはこどもが自分からイエスの許へ来ることを許すようにとおっしゃるのです。男と女の結びつきの問題も同じです。
男と女はそれぞれに結びつけられているのです。当時の結婚は、父親が娘を男に嫁として差し出すことで成立していたわけです。そうなると、結婚によって結ばれるのは男と父親ということになります。しかし、そうではないということが創世記に記されているのです。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」と言われているからです。「父母を離れて」ということは、父母の庇護の下から離れて、妻と結ばれるわけです。女性の方も、父母の下から離れて、夫と結ばれるのです。そうしてこそ、一体となると言えます。この「一体」と訳されている言葉は「一つの肉」です。一体でも良いのですが、一つの肉として創造される出来事が述べられているように思えます。バラバラだった存在が結び合わされて、一つの肉として創造される。これが結婚だというわけです。これを実現するのは神。ですから、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とイエスはおっしゃるのです。
このように考えてみれば、男と女を結び合わせる神の意志に対して、人間は引き離す意志を持ってしまうという原罪に陥っているわけです。そこにあるのは、神が結び合わせたものを人間が引き離すという人間の思いです。わたしたちはいつでも神の意志に反して生きてしまうのです。そのような人間の意志をイエスは叱っているのです。
この人間的な意志が実行されることで何が起こるかと言えば、姦通の罪が実行されるとイエスは言うのです。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と。ここで面白いのは、女性も夫を離縁すると言われていることです。当時の女性はそんなに強かったのでしょうか。いえ、おそらく、男性だけが姦通するのではなく、女性も同じように姦通するのだとイエスはおっしゃっているのです。人間は男であろうと女であろうと同じ罪を宿しているのです。イエスは、このような人間存在の問題がどこにあるのかを教えてくださっています。それは、何者かであると思い込む人間の罪です。
こどもを受け入れるように神の国を受け入れる者だけが神の国に入るのだとイエスはおっしゃっていますが、この言葉が語っているのは何者でもない存在を受け入れるということです。そして、神の国はわたしたち人間が考えているような完成された最高に素晴らしい世界というものではなく、こどものように未完成で、どうにでもなり得る世界なのだということでしょう。どうにでもなり得る世界だということは、神の国に生きている存在はどのようであろうとも認められるということです。そのように考えてみれば、神の国は何者でもないこどものように受け入れられることを求めているのだと、イエスはおっしゃっているのです。人間が考える完成された完全な国、完全な人間しか入ることができない国、ではないということです。不完全な人間が生かされる国が神の国です。だからこそ、不完全だと思われているこどもを受け入れるように神の国を受け入れなければ、入ることはできないとイエスはおっしゃるのです。
わたしたちが持っている先入見によって、神の国を勝手に思い描くのではなく、神が創造してくださるものをありのままに受け入れること。そこにこそ、神の国の神秘があるのです。離縁状の問題でイエスが最後に言われるように、男だけではなく女にも離縁状の問題がある。そして、こどもの問題は弟子たちだけではなく、母親の意志からも離れて、こどもたち自身のうちなる意志が大切であるという問題。一人ひとりのうちに思いを起こし、結び合わせ、実現してくださる神の意志に従うこと。一つにし給う神の意志が優先されること。そこにこそ、わたしたちキリスト者が生きるべき道があるのです。その道へと導いてくださる神が一つにしてくださる神。イエスとわたしの魂を一つにしてくださる神。このお方が設定してくださった聖餐の恵みに与り、神の意志の中で生きていく者でありますように。そして、引き離す思いを捨てて、神の意志に信頼して生きていくことができますように。