2024年10月13日(聖霊降臨後第21主日)
マルコによる福音書10章17節-31節
わたしたち人間は目に見えるものに目を奪われ、追い求めます。見えないものには目を留めることなどできないからです。できるのは、心を留めることです。しかし、見えないものに心を留めることができない人は見えるものがすべてだと思い込む。その在り方は、その人の生き方に影響を与えます。そして、この世の現象に揺さぶられて、右往左往してしまいます。だからこそ、この世の目に見える世界で1番であることを求めます。また、この世で目に見える栄誉を求めます。それによって、自分は善い人間だと思えるからでしょう。イエスは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」とおっしゃっているのに。
今日、イエスの許にやってきた人は多くの財産を持っていたと記されています。その人が求めているのは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」ということでした。イエスが十戒を示すと、それは小さい頃から守ってきたと答えています。彼は、十戒を守ってきたという自負があるのです。それにも関わらず、何かが欠けていると思っているのです。イエスはそれを知って、彼にこういうのです。「あなたに欠けているものが一つある」と。
「一つ」という言葉は数字で言えば「一」です。数字の一は分けることができません。一は根源的な数字です。ですから、すべてを表すときに「一」と言います。この一が欠けているならば、何もないということになります。マイスター・エックハルトはアリストテレスに倣ってこう言っています。「一から落ちたものが多、多いということである」と。わたしたちは一がたくさん集まると多になると思っています。しかし、多は一から落ちた存在だと言うのです。多いということは一を失って、一から落ちたことだと言うのです。ですから、多いということは何もないことと同じだということです。
この人は一であるすべてを持つために努力してきたのでしょう。神の律法をすべて幼い頃から守ってきた。お金もたくさん持っている。多くのものを手にしていながら、永遠の命だけがまだ手にしていないものだと思って、イエスの許に来たのです。彼はすべてを手にしたかった。イエスは彼のその心を知って、言ったのです。「一が、あなたを欠いている」と。あなたが欠けていると思って、獲得することを求めている限り、一には至らないということです。その一とは神です。この一があなたを欠いているということは、あなたが一からこぼれ落ちたということです。こぼれ落ちたあなたは多くを持っていると思っているが、何も持っていないということです。だから、多くを貧しい人たちに与えなさいとおっしゃるのです。
このように言われると、やはり地上の宝を手放さなければならないのか、とわたしたちは落胆するでしょう。この金持ちも同じように落胆して、立ち去ったのです。彼には手放すことができなかったからです。もちろん、それが人間なのです。イエスは、この人に自分自身ができないことを教えたとも言えます。この人は、これまで自分で何でもできると思って、生きてきました。どんなことでも自分なら何とかできると思っていたでしょう。それが、彼が見て、確認できる多くのものを獲得し、保ってきた自負でもあったのです。ところが、イエスの言葉を聞いて、彼は何も持っていないし、何もできないのだということを知ることになったのです。
彼が立ち去った後、イエスは弟子たちに言います。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と。それに対して、弟子たちは言います。「それでは、だれが救われるのだろうか」と。そして、イエスは弟子たちに言うのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と。この原文はこうなっています。「すべての可能なことたちは、神の前に存在している」と。神の前に存在している事柄は可能だから存在しているのです。あなたも神の前で可能とされて存在しているのだとイエスはおっしゃっているのです。
わたしたち人間が自分の努力で、神の事柄を獲得することができると思っている限り、わたしたちは神の前に生きてはいません。イエスがこの人に示した十戒は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という六つです。ルーテル教会ではこれが7つになりますが、これは十戒の地上的な部分です。天上的な戒めは「主の他に神があってはならない、主の名をみだりに唱えるな、安息日を聖とせよ」の三つです。ルターはこの十戒の解説において、第一の戒めでこう言っています。「私たちはすべてのものにまさって神を畏れ、愛し、信頼するのだよ」と。神を畏れ、愛し、信頼することが十戒の第一の戒めであり大元なのだとルターは言っています。イエスがこの人に示したのは、地上的な戒めでした。それはこの人が行うことができると思えるような目に見える戒めでした。その通り、この人は「幼い頃から守ってきた」と答えています。ところが、この人には天上的戒めが欠けているのです。イエスはこのことに気づかせるために、あえて十戒の地上的戒めだけを述べたのであろうと思います。この人に天上的戒めが欠けていることを伝えるために、「一が、あなたを欠いている」とおっしゃったのです。つまり、あなたは一である神からこぼれ落ちていると言ったわけです。
一である神を欠いているならば、何も持っていないのですから、持っていると思っているものを貧しい人たちに与えなさいとイエスはおっしゃった。そして、「わたしに従いなさい」と。それはイエスのように生きなさいということです。すべてのものを剥ぎ取られ、十字架にかけられてもなおイエスはイエスであることを失ってはいないのです。しかし、この世の目に見えるものに頼って、自分が何者かであると思い込んでいる人は、それを失えば自分を失うのです。イエスが言う「天の宝」とは神ご自身のことでしょう。神ご自身を宝として持っているならば、すべてのことが神の前で可能とされるのだとイエスは教えてくださっているのです。
「神の国」という言葉は、「神のものである国」という意味です。神が支配しておられる国は、神だけがすべてを持って、行っておられるということです。その国に生きる人は、神だけがすべてであることを受け入れて、神に自らを委ねるのです。自分の力で、神の国に入ることができると思っていた金持ちは最初から間違っているのです。彼は自分の力で、自分の努力で、すべてが可能だと思い込んでいました。しかし、彼の力では不可能なのです。
わたしたち人間は神に生かされています。それなのに、目に見える事柄を自分で処理し、自分で生きていると思っている。自分の人生は自分の努力次第で何とでもなると思い込んでいる。これが間違いです。そのように思い込んでいる人は、挫折の経験がないか、何の経験もしていないか、あるいは経験しても何も学んでいないかでしょう。自分の力で世界を動かすことができると思っているのです。自分の力では到底できないということに直面したことがないのです。誰かに助けてもらえば良いと思っていたのでしょう。それでイエスの助けを求めてやってきた。そして、イエスはその人を不可能に直面させた。
人間は目に見えるものを獲得すること、積み上げることだけに目を留めて、喜んで行うものです。自分が何者かであることを確認できる、そういうことは喜んで行うのです。しかし、自分が何者でもない無一物にはなりたくない。いや、できない。それができないのであれば、獲得してきたと思っていることも実は彼が行ったことではなく、神が与えたことだったということです。それを自分の力だと思い上がった人間が、ようやく自分の力では不可能なことを教えられた。彼は自分の力ではどうにもならないことを知った。そうであれば、イエスの最後の言葉も理解できるでしょう。
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」とイエスは言っています。この言葉のおかしさを理解している人がどれだけいるでしょうか。「先にいる」とは「第一番の者」という意味です。「後にいる」とは「最後の者」です。第一番の者も最後の者も一人しかいないはずです。それなのに、イエスは「多くの者」と複数いるように語っておられる。第一の者も最後の者も複数いるはずがないのです。だから「先にいる」、「後にいる」と訳したのでしょう。これを原意のままに「第一の者」、「最後の者」と理解するならば、おかしなことになるからです。それなのにイエスがそうおっしゃっているということは、第一の者も最後の者も第一でも最後でもないということです。たくさんいるわけですからね。先ほど言ったように、多いとは一から落ちたことであって、何もないということです。そして、それらの多くの人たちの位置が交代すると言われているわけです。ということは、第一も最後もない。すべての人がその人自身としてある。それだけだということです。このようになるのは、神の前で可能とされた人たちなのです。
神の前で可能とされた人とは、すべてを神に委ねている人です。そのような人は、自分の力で獲得することはない。また、自分の力で神の国に入ることもない。ただ、神が入れてくださることに感謝して受け入れる。それだけです。このような人たちが、第一であって最後である。最後であって、第一である。順番など関係なく、神の意志を受け入れている。それを可能とするのは、神の力のみと信じて、人間の力を捨てている。このように導かれた人は、自分の力の悪しきことに絶望した人です。
わたしたちもまた、この金持ちと同じように考え、同じように生きています。そのわたしたちのためにイエスは今日語ってくださっているのです。あなたはあなた自身に絶望しなさい。そこにおいて、神の可能とする力が働くのです。あなたが神の前に可能とされている自分自身を受け入れて生きるとき、あなたは神の国の住人となっています。神を欠いてしまっては何も持っていないのだとおっしゃるイエスの言葉をまっすぐに受け取りましょう。そのとき、天の宝である神、イエス・キリストの父なる神の御前であなたは生きることができるのです。