「備えられたもの」

2024年10月20日(聖霊降臨後第22主日)
マルコによる福音書10章35節-45節

わたしたち人間には意志というものがあります。自分が自分の意志をもって行うことができるのが人間です。人に動かされる場合も、誰かに気に入られるように動こうとする意志が働いていると言えます。もちろん、自分の本当の意志を抑えて、誰かの意志に従うことで、その人に気に入られるということを選択しているのですから、本来の自分の意志とは違うことをしているのですが、それでもその選択をした意志はその人のものです。自分の意志で選択したことに関しては、自分が責任を持つということになります。ところが、自分の意志では選択できないこともあります。他の人が選択権を持っている事柄に関しては、わたしの意志がどうあろうとも他の人の意志に従うしかないものです。その場合、選択した人に責任が生じます。

今日の福音書で、ゼベダイの息子たちがイエスの許に来て言う事柄は、ゼベダイの息子たちに選択権があるのではなく、神に選択権がある事柄です。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と彼らはイエスに願います。「座らせてください」と訳されていますが、実は命令形の言葉ですから「座ることをわたしたちに与えなさい」となります。ただし、現在形の命令形ではありませんので、嘆願になるわけですが、基本は命令形です。つまり、イエスの意志を動かそうということになっているわけです。

わたしたちの世界において、人を動かすことができるのは、上に立つ人です。地位が上の人間が下の人間たちに命令するわけです。その命令においては、最終責任を負うということが伴いますので、単に命令することができるというだけではなく、命令したことについての責任を負う覚悟が必要になります。それで、地位が上の人が命じる場合は良く良く考えて命令することになります。良く良く考えるということは、全体にとって何が相応しいのか、どうすべきかを良く考えて、下の者たちに命令するのです。下の者たちが上の者に命令するということはあり得ません。彼らは全体を考えてはいないからです。ゼベダイの息子たちは自分たちの地位が上がることしか考えていないのですから、自分たちが責任を負うことなど考えていません。自分たちが責任を負うつもりもなく、上の者が命じるように願っているわけです。

それに対して、イエスがおっしゃったのは、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」ということでした。イエスのこの言葉は象徴的表現ですから、イエスのご受難である十字架を意味しています。彼らは「できます」と答えています。驚くべきことに、イエスは「杯をあなたがたは飲むであろう」、「洗礼をあなたがたは受けるであろう」とおっしゃっています。「え!そうなの?」と思いますよね。イエスだけしか飲むことができないのが十字架ではないのか。イエスだけしか受けることができないのが十字架ではないのかと思いますよね。これは日本語訳だけの問題ではなく、多くの翻訳でこうなっています。しかし、ヘブライ語の未来形と命令形は同じ形であるというところから理解すべきであろうと田川健三という聖書学者は説明しています。わたしもその方が理解できると思います。

イエスの言葉が命令形であるならば、こうなります。「できます」と答えたゼベダイの息子たちに対して、イエスは「わたしが飲む杯を飲みなさい。わたしが受ける洗礼を受けなさい。」とおっしゃった。つまり、弟子たちができると言うのであれば、杯を飲むことも洗礼を受けることも彼らの意志が働くならば可能になるということで、「飲みなさい。受けなさい。」とイエスは命じたのです。しかし、二人の弟子たちの意志が働かなければ、飲むことも受けることもできないのです。

実際は、弟子たちは、イエスの十字架を前にして、逃げ出したのですから、その命令に従うことはできなかったのです。彼らには、十字架を引き受ける意志は働かなかった。それは当然です。イエスが飲むべきもの、イエスが受けるべきものを他の人間が行うことなどできないのです。イエスが飲み、受けるものは、神さまのご意志ですから、神さまのご意志を全面的に受け入れる意志が必要になるわけです。神さまの意志を受け入れて従うことができるとすれば、そのような意志を働かせることができる人は本来的には神さまによって備えられている者でなければならないのです。

栄光を受ける、良い地位に就くというようなことも責任が伴うとなると、躊躇するものです。責任は負わずに、栄光だけ受けて、良い地位に就くだけにしたい。これが、人間が求めることです。そして、責任はその地位に就けた人、上の人が負ってくれるようにしたいのです。ところが、現代のわたしたちの間では、その反対のことが起こっています。上の人が責任を下の人に押しつけて、自分は地位を守るということが起こっています。これが「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」とイエスがおっしゃる現実です。どこかの政治家のようなトカゲの尻尾切りというやり方ですね。それでも、賢い人がいるもので、下の者でありながら、上を動かすことができる人もいます。これを傀儡政権と言います。責任は上の人に取らせて、自分は責任を逃れながら、自分の思うように全体を動かすという人です。このような人の方が、たちが悪いのですが、表に出ないので周りからは分からないものです。ゼベダイの息子たちが行おうとしていることは、これなのです。彼らは自分たちは責任を負わずに、イエスに選択の責任を負わせて、自分たちの地位を確保するということを考えているわけです。「お願いします」と言いながら実は命令しているわけです。それに対して、イエスはこうおっしゃっています。「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と。

この原文には「許されるのだ」という言葉はありません。「決める」という言葉もありません。直訳すればこうなります。「わたしの右から、あるいはわたしの左から座ることは、わたしが可能なこととして存在してはいない。むしろ、備えられた人たちに。」となっています。つまり、イエスが王座に就いたとしても、その右と左に座ることはイエスの意志によって決まるのではないということです。その意味をとって、「決める」と付け加えて訳しているわけです。イエスがおっしゃるのは、右と左に座ることは神の意志だということです。そして、その神の意志を受ける人というのは「備えられた人たち」だとイエスはおっしゃっているのです。これは神がそのために備えておられる人たちだという意味ですから、ゼベダイの息子たちが座ろうという意志を持っていたとしても、不可能だということです。あなたがたは神の意志を動かすことはできないのだとイエスはおっしゃっているのです。

ということは、イエスが命じた「杯を飲みなさい」、「洗礼を受けなさい」という言葉も究極的には、「備えられた人たちに可能とされている」ことであって、あなたがたが自分の意志で飲み、受けることはできないのだとおっしゃっているのです。これが、わたしたち人間が勘違いしている事柄なのです。

わたしたちは自分が責任を負う事柄に関しては自分の意志を使うことができます。しかし、自分が責任を負わないこと、負えないことに関しては、自分の意志を使うことはできないのです。まして、神の意志を動かすことなど、わたしたち人間にはできません。あくまでわたしたちは神さまに動かされ、用いられる存在なのです。預言者イザヤはこのような言葉を語っています。「斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって、高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし、杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。」(イザヤ書10:15)と。これはアッシリアの王が自分の力を誇っているときに語られた神の言葉です。アッシリアの王は神さまが用いられる斧だというわけです。このイザヤの預言が語っていることは、アッシリアの王だけではなく、わたしたち人間はすべて神さまが用いられる存在なのだということです。この弁えがあるならば、ゼベダイの息子たちもイエスに命じることなどなかったでしょう。もし、彼らが備えられた人たちであるならば、イエスに責任を負わせて、自分たちは都合良く上の地位に就くなどと考えることもなかったでしょう。ただ神の意志に従うことができますようにと祈ったはずです。

祈りは、無力さを知る者だけが祈ることができます。無力さを知っている者は、あくまで神のご意志に従ってすべてがなることを信じています。だからこそ、神のご意志をわたしが受け入れることができますようにと祈るのです。このような祈りこそ信仰の祈りであり、わたしたちのうちに働く神の御業なのです。この祈りの原型は、イエスのゲッセマネの祈りです。イエスと同じ祈りの心を起こされた人は、イエスの杯を飲むことはできないとしても、自分を捨てることはできるでしょう。イエスと同じ十字架を負うことはできなくても、自分の十字架を取ることはできるでしょう。そのとき、イエスと同じ祈りを祈り、父なる神のご意志がなることを喜ぶことができるのです。

あなたが計画すること、あなたが準備すること、あなたが予測可能なこと、これらはあなたが把握できることだけです。あなたが制御できると思い込んでいることであろうとも、実は制御できてはいないのです。それにも関わらず、制御して、自分が思うようにことを運ぼうとする。それこそ愚かな人間の知恵です。これを覆すために、十字架という愚かに見える神の知恵が働くのだと、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18節以下で語っています。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)と。反対に賢く見える人間の知恵は実は愚かな知恵でしかなく、神さまの事柄に関しては何もできない。この神の知恵へと導くものがイエスの十字架です。この知恵に至る人もまた、備えられた人。あなたがその人でありますように。

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