「批判される義しさ」

2024年10月27日(宗教改革主日)
マタイによる福音書11章12節-19節

「しかし」。新しいことを語り始めるとき、それまで述べてきたことと反対のことを述べるときですね。あるいは、述べてきたことが間違っているということを伝えるとき「しかし」と言います。

今日の福音書でも最後に、「しかし」が出てきます。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と。「悪霊に取り憑かれている」とか「大食漢で大酒飲み」とか言われているけれど、「しかし、本当はヨハネもイエスも知恵があって、良い働きをしたのだ」と言われているように思えます。批判的な人たちは、ヨハネもイエスも貶めてしまいたいので、批判できるところを見つけて、批判しているのだよ。しかし、本当はヨハネもイエスも良い働きをしているのだ。その良い働きからヨハネもイエスも正しかったということが証明されることになるということのように思えるのです。他に良いところもあるよ、と思いたいのです。

ところが、これが「そして」であればどうでしょうか。「そして、義しいとされるものである、知恵は、その諸々の働きから」とイエスが言われたのであれば、悪霊に取り憑かれていると批判されるヨハネも、大食漢で大酒飲みのイエスご自身も、その姿が「知恵の諸々の働き」であるということにならないでしょうか。悪いと批判されていることそのものが知恵の働きなのだと言っていることにならないでしょうか。

マルティン・ルターもまた批判されることを語り、批判されるような行動をしました。カトリックの神父なのに教会の間違いを指摘する。教皇に対して従順であるはずの修道士が教皇の代理人たちを批判する。仕舞いには修道士なのに結婚してしまったのです。このような行動が起こったのはルターのうちに働いた知恵の結果でした。彼はこのようなことを言っています。「もしももっと長く生きなければならないなら、試練について書を著してみたい。というのは試練がなければ、誰も聖書も信仰も神の畏れと愛も理解できないからである。いまだ試練に出会ったことのない人は希望が何であるかをしることはできないであろう。」(TR1,1059)と。

ルターがここで述べている試練とは批判されることです。批判され、苦しめられることです。その試練を通ってこそ、知恵は知恵である真実を明らかにするのです。試練の中に出口があるということは、パウロも言っています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)と。「逃れる道」と訳されていますが、実は「出口」です。試練を引き受け、試練を通ってこそ出口に至るということです。だからこそ、試練を通ることは信仰の必然なのだとパウロは語っているのです。

マルティン・ルターもまた多くの試練を受けたと語っています。ルターは多くの試練を通して、信仰を鍛えられたわけですが、こう言っています。「人は経験し積み重ねなければ何も学べないゆえ、わたしの試練によってわたしは学んだのである。実践がなければ学べないからである。熱狂派や分離派たちはこれを教える敵、悪魔を持っていないからである。」(Tr1,352)と。試練を与え、教える悪魔をルターは持っていると言うのです。そこまで言いますかと思えますが、これはわたしたち信仰者にとっては必然だと言えます。悪魔を持っているとき、わたしは学ぶことができるのです。悪魔は神の御業の中でうごめいていても、結果的には正しい信仰を教える敵となるということですね。

昔からこうしているという習慣はそこから脱け出すことができない圧力をもって、わたしたちを押さえつけようとします。しかし、聖書に従って、「本当にそうなのか」と自らに問う人は神の知恵を与えられるのです。その結果、試練が与えられるとしても、その中に知恵が隠されていると信じて、取り組んで行くのです。そのように生きることがルーテル教会に招かれたわたしたちの道なのです。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18節以下でこう言っています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と。パウロは、愚かに見える十字架のキリストが神の力であり、神の知恵であると述べています。パウロがこのように語っているとすれば、イエスの言葉は、イエスの大酒飲みの姿そのものが知恵だということでしょう。

批判されるような見た目のおかしさそのものの中に知恵は働いているのだとイエスがおっしゃっているとすれば、それはまた知恵は批判されるものだということです。知恵は批判されることを通して、正しいことだと証明されてきたのです。批判されない知恵はないのです。知恵は習慣として守られてきたもの、誰もが当たり前だと思っていることを「本当にそうなのか」と疑問を投げかけるからです。「そうだ、そうだ」と誰もが同意することが知恵ではないのです。それは、自分を変えたくないので、そのままにしておこうということに安心しているというだけです。その安心している姿に疑問を感じ、本当にそうなのかと考え、取り組んで来た結果、今まで当然だと思っていたことを覆す知恵が見えてくる。あるいは、多くの人が何も考えずに従うように教えられてきたこと、習慣として守られてきたことこそが愚かであったということが明らかになる。それが知恵ではないでしょうか。

マルティン・ルターが最初に問いかけた「贖宥の効力を明らかにするための討論」が扱っていることも、これなのです。人間の行為によって救われるということで良いのかということです。今⽇の午後講演してくださる江⼝再起先⽣が「ルターの脱構築」という著書の始めで語っておられることですが、「信仰義認」という⾔葉が「信仰によって義とされる」ことであると⾔われると、わたしたち⼈間は「救われるためには信仰が必要なのだ、よし信じよう。」となるものです。これでは「律法を守れば救われるのだ、よし守ろう」というのと同じ次元になってしまうということです。ルター当時のことで言えば、「贖宥状を買えば救われるのだ。よし、買おう。」ということです。そこで、「それではおかしいのではないか」と疑問を持つこと、これが知恵の働きなのです。

「あれは悪霊に取りつかれている」、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」という言葉が示しているのは知恵というものが辿る必然的な道です。批判されるような見た目の中にこそ知恵が働いているのであり、ヨハネやイエスの悪霊に取り憑かれたような姿、大食漢で大酒飲みの姿にこそ、知恵が働いているのだということです。知恵というものは批判にさらされながらも時の中で受け入れられてきたのです。

使徒パウロが言うように「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)ということです。批判を恐れてはならない。批判されないようにしようと思いがちですが、批判する悪魔も神の御業の中で教える敵として働かされるものなのです。神の御業はそれほどに広く、強いのです。ルターが言った「すべてのことは神の絶対的必然性によってなる」ということなのです。批判も悪魔も悪しきことに思えることも、そして良いと思えることも含めて、すべてが神の意志に従ってなっていくために共に働いていくのです。

宗教改革主日の今日、わたしたちは苦難を引き受けられたイエスの十字架の前で、イエスの体と血に与ります。イエスの体と血がわたしの口と喉を通って、わたしのうちに入ってくださるのです。神の知恵であるイエス・キリストご自身が入ってくださる聖餐を感謝していただきましょう。批判され、殺されたイエスの復活の力が、わたしたちのうちで働いてくださるのです。如何なることがあろうとも心配することはない。知恵の義しさは、その諸々の働きによって証明されるのです。神の知恵であるイエス・キリストに従って、神に信頼して歩んで行きましょう。

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