2024年11月3日(全聖徒主日)
ヨハネによる福音書11章32節-44節
わたしたち人間は、地上の生活において何かに縛られています。それは、地位であったり、財産であったり、また人間関係であったりします。わたしたちの日常においては、特に人間関係に縛られて、身動き取れないということも起こります。「こちらを立てれば、あちらが立たず」ということが起こると、どっちを立てれば良いのか分からなくなるということも起こります。そのような人間関係が面倒になることもあるでしょう。それで、地上の生活を捨てるという選択をする人も出て来ます。地上の生活を捨てる選択によって、地上から解放されるのかと言えば、そうとも言えません。死後の世界は神さまのものと思っている人はほとんどいませんから、死後の世界も地上の人間が動かそうとしているところがあるのです。
死者が天上にある生活をしていると信じているのは、天上を信じている人たち、つまりわたしたちキリスト者です。他の宗教では、天上の支配者である神の存在がどのようであるかは良く分かりませんが、キリスト教では天上は神の御座があるところと信じられています。この天上の世界に生きるのは、天上の世界を信じて、地上を生きた人たちです。今日、全聖徒主日にわたしたちが覚えているのは、天上の世界を信じて生きた聖徒たちです。その中には、わたしたちが知っている人たちもいます。ことに、新しい教会堂が建ってから天に召された人たち、落合正夫さん、中野廣子さん、浅井敬さん、池田祥子さん、吉田貞代さん、一ノ瀬安子さん、村松正義さん、大野比奈子さんの8人の方々がいます。毎年、天に移住する方々がおられます。ルーテル教会では聖人はいませんから、全聖徒という表現は、天に召されたすべてのキリスト者という意味です。彼らを覚えることは彼らを地上に縛ることではありません。むしろ、天上の生活を喜んでいる人たちとして、彼らの喜びを信じて、わたしたちは地上を生きるのです。
死んだキリスト者は地上に縛られてはいません。彼らは復活する者として地上の人間的な事柄から解放されています。それは罪から解放されているということです。使徒パウロもそう言っていますが、現実の死だけではなく、キリスト者とされることをこう述べています。「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」(ローマ7:4)と。「律法に対しては死んだ者」というのは、「律法」が縛っている地上の生から解放されていることを表しています。地上の生活において、罪に支配されないようにと神さまからわたしたち人間に「律法」が与えられましたが、その「律法」が本来目指していた神のものとして生きることを人間の力では実現することができませんでした。反対に、「律法」によって地上に縛り付けられる状態にされていたのです。それは「律法を守らなければ神の国に入ることはできない」という考え方でした。さらに地上の生を終えた者をもはや生きてはいない存在と考えることにもなりました。それで、神さまはキリストをお遣わしくださり、キリストを信じて、キリストのものとして生きる道を与えてくださったのです。
この道に入れられた人をキリスト者と呼ぶわけですが、キリスト者は「律法」が表している地上の生においては「死んだ者」つまり、罪から解放されている者なのです。そして、地上にあって天上の生を生きるように召されている者でもあります。ですから、キリスト者は地上にあっても天上にあるように生きているということです。それは、地上の生に縛られないで生きているという意味なのです。これが、今日の日課でイエスが最後におっしゃっている言葉です。「ほどいてやって、行かせなさい」とイエスはおっしゃっています。これは「あなたがたは彼を解放しなさい。そして、彼が行くことを赦しなさい。」という意味です。つまり、ラザロは周りのユダヤ人たちから縛り付けられていたということです。何に縛り付けられていたのかと言えば、死んだということに縛り付けられていたのです。「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」と述べられていますが、ここで使われている「巻かれた」とか「包まれて」という言葉は「縛る」という言葉なのです。さらに「死んだ人」と表現されていますが、イエスはラザロと呼んで、墓穴から呼び出します。地上的には「死んだ人」も名前を持っているラザロなのです。新共同訳では「どんなにラザロを愛しておられたことか」など人々がラザロと名前で呼んでいるように訳されていますが、そこには「ラザロ」という名はないのです。「彼」です。つまり、周りの人たちにとってはもはやラザロという固有の人ではなく一般的な彼なのです。イエスだけが「ラザロ」と呼ぶのです。
死者は「彼」や「彼女」という一般的存在となってしまうのです。ところが、イエスにとってはラザロなのです。わたしたちの間でキリストを信じて地上の生を生きた人たちも、キリストとの関係においては一人ひとりの名をもって呼ばれる存在です。神さまから名をもって呼ばれる存在として、天上で生きている人たちがキリスト者です。そして、わたしたち地上を生きているキリスト者もまた一人ひとりの名をもって呼ばれる存在です。キリストはわたしたちを地上に縛られているところから呼び出してくださったのです。天上の生活を地上にあって生きるようにと呼び出してくださったのです。ここにわたしたちキリスト者の自由があります。
わたしたち人間を地上に縛り付けているのは、わたしたちの考え方です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」、「墓に泣きに行くのだろう」、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。人々はラザロの死を何度も確認しています。死は取り返しのつかない事柄だと彼らは語っています。これに対してイエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と述べています。地上の生活に縛られているということは、「信じていない」ということです。そして、信じている者は神の栄光を見るとイエスはおっしゃるのです。この栄光というのは、イエスの十字架を表していますが、神によって生きるという意味でもあります。神の栄光というのは、神がすべての者を生かすお方であることなのです。その栄光を見る人は信じる人なのです。
わたしたちの間にあって、天に召された人たち、そして、天にあるすべての聖徒たちは、この栄光に与って生きている人たちです。わたしたち地上に生きているキリスト者もまた、神の栄光に与って生きている者です。このわたしたちのいのちのうちに、神の栄光は輝いているのです。そして、地上の生活に縛られることなく、神に生かされて生きていくのがキリスト者なのです。キリスト者にとっては、地上も天上であり、天上に至る道を歩む地上なのです。この道を歩む者は、互いに縛り付けることなく、それぞれが「行く」ことを赦す者たちです。解放された者として、互いを生かすように生きる者なのです。
墓穴を塞いでいた石を取り除けられ、墓穴から呼び出されたラザロのように、わたしたち一人ひとりもまた解放されて生きて行くのです。地上の人間的な地位や財産や関係によって縛り付けられているものから解放されている存在として生きていくことができるのです。先に天に移住した人たちは、地上にあって縛られていたものから解放されて、天上からわたしたちを見ていることでしょう。「あれ、あんなことに縛られている。」、「心配しなくても良いのに、心配している。」、「自分の力を捨てると楽なのに」、「何をこだわっているのだ」、こんな風に天上から見ていることでしょう。
全聖徒主日を守っているわたしたちは、この日、天上にある兄弟姉妹を覚えて、地上の生活から解放された自由を生きていることを信じて、祈ります。今なお、地上の不自由な生活、縛り付けられる生活にがんじがらめになっているわたしたちがキリストにあって自由を生きていくことができますように、共に祈りましょう。イエス・キリストの体と血に与って、天にある聖徒たちと共に天上の生を生きる希望を確かにいただきましょう。キリストはあなたをいつも呼び出しておられます。「出てきなさい」と呼び出してくださるイエスに従って、ラザロのように自由を生きるものでありますように。天に移住した人たちと共に、天にある幸いを地上にあって生きることができますように。