「内側を生きる」

2024年11月10日(聖霊降臨後第25主日)
マルコによる福音書12章38節-44節

みなさんは、自分自身をどこに見出しますか。あなた自身はどこにいますか。わたしたちは、鏡を見て、わたしだと思うでしょう。しかし、それはわたしではありません。鏡に映っているのは、わたしたちのいのちそのものではありません。わたしが人に見せているわたしもわたしそのものではありません。わたしはどこにいるのでしょうか。

今日の福音書で、イエスが批判している律法学者たちの姿「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」という姿は、彼らの見えている姿のように思えますが、実は見えていない内側です。やもめの世話をしているように見せて、食い物にしている。長い祈りをして、自分の信仰深さを見せているけれど、それは見せかけでしかない。周りの人間たちは律法学者たちの外側に惑わされている。イエスは、このように見ているのです。イエスが見ているのは、彼ら律法学者たちそのものの姿です。一方で、生活費全部を投げ入れたと言われているやもめは、外側では貧しい、哀れな姿に見えるけれども、彼女の内側に生きている彼女そのものは神を信じて生きている。どちらも内側にあるいのちが外側に現れているのです。まったく違う2種類の人間の内なるその人自身をイエスはご覧になっているのです。

マルティン・ルターは「キリスト者の自由」において、わたしたちが生きる自由について述べているわけですが、その分析を人間の内側から始めています。ルターは、人間を「内なる人間」と「外なる人間」に分けて、「内なる人間」から始めています。内なる人間が自由にされて、外なる人間を自由に生きるということです。使徒パウロもこう言ったことがあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)と。内なる人が新たにされている人は、外なる人が朽ちていくことに左右されることなく、日々新たに生きることができるということです。

外なる人は、慣習にこだわっている人です。過去にこだわっている人です。それが律法学者たちです。今日の箇所の直前の箇所でイエスは律法学者たちを批判しています。慣習的な考えを変えようとしない彼らの姿を批判しています。過去の人たちが言ったことを批判的に見ることができない。だから、聖書を正しく読むことができない。ダビデが救い主を「主」と呼んでいるのだから、ダビデの子が救い主であるなどと言っている過去の律法学者たちはおかしいではないかと、イエスはおっしゃっています。聖書を正しく読むことができない姿が結果的に、外側を取り繕っている姿だとイエスは見ておられるのです。

聖書は、内なる人間について見ておられる神を語っています。神さまがダビデを選んだときにも、兄のエリアブを選ぼうとしたサムエルにこう語っています。「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」(サムエル上16:7)。神が見るのは心と言われていますが、これは内なる人間のことです。容姿や背の高さは外なる人間のことです。

わたしたちは外なる人間の容姿や地位や職業によって対応を変えてしまうものです。先生と呼ばれる人は賢いと考えますし、財産があれば偉いのだろうと思います。容姿が良ければ、素敵な人に違いないと思います。外側の人間に目を奪われて、内側の人間を見ることができなくなります。外側の人間がいかに良さそうに見えても、その内側の人間がいずれ現れてしまうものです。そして、こんな人だったのかと思い、自分は何を見ていたのだろうかと落胆することもあるでしょう。内側の人間は、危機のときに現れてしまうものです。そして、見る人が見れば、分かってしまいます。もちろん、見る人が自分の立場にこだわっている場合には、自分の立場によって目が曇らされ、正しく見ることができません。

律法学者たちの外側の人間は、長い祈りをして素晴らしいと思われます。上席、上座に座って、偉い人に違いないと思われます。長い衣をまとって歩くと、人々は立派な人だと思います。そのような人は、外側を飾っているだけなのですが、内側もそうなのだと思わせるものです。外側は、内側から溢れ出てくるものですから、いずれ化けの皮ははがれてしまう。それをイエスはこうおっしゃっています。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と。

この言葉が語っている「人一倍」という言葉は「有り余る中から入れた」という彼らの献金についての言葉と同じ意味の言葉で、「溢れる」という意味です。彼らが受ける裁きは「溢れる」裁きであり、彼らが投げ入れる献金は「溢れる」ものから投げ入れているのだというわけです。彼らは外側の溢れるものを人に見せているということです。

反対に、やもめは溢れるものなどありませんから、「乏しい中から」投げ入れたと言われています。それは「生活費を全部」といわれています。これは「生活全体」という意味です。つまり、彼女は自分が生きるということの全体を投げ入れたとイエスは言うのです。それは、自分の生活全体を神に委ねたということです。だからこそ、イエスは「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」とおっしゃるのです。それは外側に見えている金額の多さではなく、生きるということそのものを神に委ねたという意味で、「たくさん」だとイエスは言うのです。わたしたちキリスト者が信じるということも、この姿と同じなのです。わたしたちは、自らのすべてを神のうちに投げ入れて、すべてを委ねて生きるのです。

わたしたちは有り余っているところだけを神に委ねるのではありません。時間があるときだけ、神さまのことを考える、という人もいるかも知れません。それでは神さまは付け足しなのですが、それが精一杯だと自分に言い聞かせます。溢れたときだけ献げる献金のようなものです。わたしが生きるすべて、わたしの生活すべてを神に委ねるということがない。生活のすべてを神に献げなさい言うと、カルト宗教のようだと思うでしょうか。この女性が投げ入れたのは外側すべてのように思えますが、実は内側のすべてを神に投げ入れたということです。わたしが生きるために必要なものは神さまが与えてくださると彼女は信じたのです。

当時のやもめは、毎朝その日の生活費を支給されたと言う人もいます。ところが、すぐに生活費を投げ入れたとすると、その日の生活を神に委ねたということです。この姿こそが信じる者の投げ入れる姿だとイエスは見ておられる。そこまで神に委ねる心で生きている彼女の内側の人間を見ているイエス。また、彼女が律法学者たちの食い物にされる前に、彼女は生活費の全部を投げ入れたとも考えることができます。神さまから与えられたその日の生活の糧を、まず神に献げた。律法学者たちに食い物にされる前に。そう考えてみると、神に献げることは自分のいのちを神に献げて生きるということです。その生き方は、内側の人間を見るイエスにしか見えないものなのです。

外側の人間しか見ていない人は、この女性の投げ入れた金額の少なさに、信仰心が足りないと思ったかも知れません。しかし、考えてみれば、多くのお金を投げ入れている人たちの中で、少額のレプトン銅貨二枚を投げ入れる勇気を持っている。彼女は自由を生きているのです。彼女は周りのことなど気にしていないのです。ただ神さまだけを見ているのです。この生き方こそが、彼女の信仰を表しています。自由を生きている彼女の魂を表しているのです。彼女の内側の人間が如何なる人間であるかを表しています。貧しいことを恥じることはない。溢れるものを持たないので、欠乏の中から投げ入れた。そのような彼女は彼女の生そのもの、生きるということすべてを神に委ねたのです。この内側の人間が神と結ばれて生きている姿こそ、イエスがご覧になる姿なのです。

わたしたちが自分の貧しさや哀れさを恥ずかしいと思うことなく、自分の生全体を神に委ねて生きているならば、神さまはあなたの内側の人間を見てくださっています。どれほど神さまを信頼して、愛して生きているかを見てくださっています。あなたの内側の人間が、神さまに向かって、神さまに委ねて、神さまと共に生きている姿を見ておられます。そのお方が、十字架のイエスであり、イエスの父なる神なのです。

このお方は、十字架の愚かさの中に、真実に生きるいのちを隠してくださった神です。イエスの十字架を見上げるわたしたちは、十字架の上でご自身の生全体を神に委ねたイエスを見上げるのです。このお方こそ、今日のやもめの内側に働いておられる神です。そして、十字架のイエスのうちに働いておられる神を見るわたしたちのうちにも働いてくださっている神です。

あなたはこのお方によって、信じる者とされ、あなたのすべてを投げ入れて生きるように召されています。この女性のように、自分自身の内側の人間も外側の人間も投げ入れて、生きていきましょう。あなたの欠乏の中に透けて見えるのは、真実のあなたです。あなたの欠乏の中に生きて働いておられるイエスが、あなたを支え、導き、あなたのすべてを守ってくださいます。

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