2024年11月17日(聖霊降臨後第26主日)
マルコによる福音書13章1節-8節
わたしたちは自分が見ている世界がすべてだと思い込みます。自分が見ている世界がいかに狭い世界であるかを知らないのです。狭いというのは、自分が見たい世界しか見ないという意味です。自分が見たくない世界は見えていても見ていないのです。イエスが今日の福音書でおっしゃっている「あなたがたは見ていなさい」という言葉が語っているのは、見えていても見ていない世界を「見ていなさい」ということです。さらにイエスは、今日の日課に続く9節でこうおっしゃっています。「しかし、あなたがたは見ていなさい、自分自身を」と。先の5節では何を見ていなさいとおっしゃったかと言えば、「誰かが、あなたがたを騙さないように」見ていなさいとおっしゃったのです。これは外側の世界に騙されるなという意味です。9節の方は内側の自分自身を良く見ていなさいと言われています。
イエスが十字架に架けられることを通して、弟子たちはユダヤ社会の迫害の中に放り込まれるのです。そのとき、自分自身を見ていなさいとイエスはおっしゃる。それは自分自身にも騙されるなという意味でしょう。わたしたちは、外側の誰かに騙されることがある。そして、内側のわたし自身にも騙されることがあるということです。
わたしたちは、自分のことは自分が良く分かっていると思っています。ところが、わたしたちは自分が騙されていることに気づかないものです。だから騙されるのです。ということは自分のことも分かっていないのです。自分自身が騙されるのは、外側で起こったことを内側に受け入れる際に起こります。起こった出来事を自分が持っている価値基準に従って判断して受け入れるのが、わたしたちです。ところが、わたしの価値基準、判断基準というものはわたしの立場によって変化するものですから、絶対的な基準ではありません。わたしの立場によって変化するわたしの基準で受け入れることは、わたしが立っている立場において、何かに、あるいは誰かにわたしが支配されているということなのです。
わたしたちは、自分が判断していると思っていますが、自分の判断基準が誰かの判断基準であるならば、その人に支配されているわけです。それが人間の誰かである場合は、その人間に支配されています。それが神である場合には、わたしは神に支配されているのです。イエスがおっしゃる「あなたがたは見ていなさい」という言葉が語っているのは、神に支配されているあなたの価値基準に従って、「あなたがたは見ていなさい」ということなのです。そうでなければ、自分を支配している誰かによって騙されるからです。
この場合、騙されないように見ているということが語っているのは、外側の出来事を見ているということではなく、騙されるような自分であることを良く見ているということです。だとすれば、5節の「見ていなさい」という言葉も9節の「見ていなさい」という言葉も、同じく「自分自身を見ていなさい」ということになります。わたしたちは自分自身を見ているでしょうか。神さまがわたしを支配しておられる世界で、自分自身を見ているでしょうか。そこが問題なのです。
アダムとエヴァの堕罪は神さまが支配しておられる世界における自分自身を見失った結果です。蛇に唆されたのですから、蛇に支配されているのですが、自分が自分を支配していると思わされたのです。そして、神さまの支配しておられる世界を自分から離れることになりました。その結果、わたしたち人間は神さまの支配を離れて、人間の支配の世界に入っていったのです。そのわたしたちをご自身の世界に連れ戻すために、神さまはモーセの十戒を通して語りかけてくださいました。それでも、十戒を自分たち人間の支配の下に位置付け、判断する存在を神さまではなく自分たち人間としてしまったのです。
これがわたしたちが生きている世界です。この世界において、人間に支配される世界から脱け出すことができないで苦しんでいるわたしたちのために、神さまはイエス・キリストをお遣わしになりました。イエス・キリストを通して、わたしたちは神さまのご支配の世界に入れられるはずだったのです。しかし、そのイエス・キリストをわたしたちは十字架に架けて、殺してしまったのです。それでもなお、神さまはイエス・キリストの十字架の出来事をご自身のご意志に従って用いてくださいました。それが復活の出来事なのです。死ななければ復活はないのですから、十字架の死が復活の生へと結実するようにしてくださったのは神さまなのです。わたしたちは死すべき存在です。死を免れる人は一人もいません。十字架のイエスのように殺される人は少ないでしょう。しかし、わたしたちは必ず死ぬのです。殺されようと老衰であろうと死すべき存在なのです。そのようなわたしたちの生と死を同じように経験してくださったイエスの十字架は、究極的なわたしたちのいのちを表しています。そのいのちを造られたお方を信じる者は、イエスと同じように生きることになると、十字架は語っているのです。わたしたちが見ているべきなのは、この神さまの支配の確かさです。
この確かである神さまのご支配を「見ていなさい」とイエスはおっしゃっているのです。そうすれば、わたしたちは騙されることはないとおっしゃっているのです。自分自身を見ているとしても、自分自身しか見ていなければ、結局自分が見たいことしか見ませんから、騙されます。神さまが見せることを見ること。それがイエスが「見ていなさい」とおっしゃるものです。そして、わたしたちが自分自身を見ているということは「神さまが見せてくださる世界をお前は見ているか」と自分に問いかけることでもあるのです。「お前は自分が見たいものしか見ていないのではないか」と自分に問うこと。「お前が見ているものは誰の支配なのか」と自分に問うこと。「お前が見ているものを支配しておられるのは究極的にどなたなのか」を自分に問うこと。これがイエスがおっしゃる「あなたがたは見ていなさい」という言葉が語っている内容なのです。
わたしたち人間は、人間に騙されます。他人だけではなく、自分自身にも騙されます。そして、自分自身を見失ってしまうのです。騙されないためには、何が必要なのかと言えば、本当の自分自身です。誰かに唆されている自分自身ではなく、自分で良く考えて、自分を吟味して、本当のわたしが求めているものが何であるかを確認するということ。それが、わたしが見ているということの内実なのです。「わたしがわたし自身を見ている」とは、騙される自分自身を見張っているということでもあるでしょう。騙されやすい自分であることを忘れないことでもあるでしょう。そのように、人に騙されることなく、自分に騙されることなく、神に従って生きていくことが、イエスがわたしたちに求めておられることなのです。
騙されやすい自分を知っている自分であるのか。騙されるわたしは何故騙されるのか。これを良く考えていることもまた、「見ていなさい」とイエスがおっしゃることです。
騙されやすいという自分がどうして騙されやすいのかを考えてみれば分かることですが、騙されやすいわたしはわたしを持っていないということです。だから、騙される。誰かに騙されることで、自分が選択したわけではないのに、誰かの計画に従うように動かされる。その人に嫌われたくないということは、極小さな動機です。もっと大きな動機は、自分を守りたいという動機です。自分が責任を負いたくないという動機です。そして、責任を誰かが負ってくれて、自分はその人の下で何もせずに、何の心配もなく生きていきたい。これが究極的にわたしたちが求めていることなのです。そのために、他人を犠牲にするとしても平気なのです。自分が守られるならば、殺人さえも厭わないのです。このような人間がわたしたちです。この世で戦争が無くならないのもこのようなわたしたちだからです。
口では、どうして戦争するのか分からないと言うのですが、目の前に敵が現れて、自分を殺そうとするときに、先に敵を殺そうとするのがわたしなのです。自己防衛は当然ですが、殺人となると躊躇するものです。しかし、戦争に参加することになれば、その躊躇など吹き飛んでしまいます。このようなわたしたちの世界が、神さまのご支配の世界になることができるのでしょうか。
イエスは、このわたしたち人間の見て見ぬ姿をご存知で、「あなたがたは見ていなさい」とおっしゃるのです。「あなたがたは見ていなさい、自分自身を」とおっしゃるのです。わたしたちは見ていなければなりません。イエスを十字架に架けたのがわたしであることを。イエス殺害に賛成したのがわたしであることを。「十字架につけろ」と叫んだ人たちは、誰も責任を負わなかったのだということは、わたしたちも同じその場にいたならば、責任を負わなかったであろうことを知っておくべきなのです。それが「あなたがたは見ていなさい」とおっしゃるイエスの命令なのです。
この命令に従うか否かは、一人ひとりが自分を吟味して決断することなのです。その決断のために、イエスはご自身をあなたがたに与えるとおっしゃる聖餐を設定してくださった。イエスをいただくあなた自身がイエスの体と血を受け入れるように、神さまのご意志を受け入れる者となるのです。その信仰を持って、聖餐に与りましょう。