「真理からの存在」

2024年11月24日(聖霊降臨後最終主日)
ヨハネによる福音書18章33節-38節

わたしたちはどこかの国で生きています。その国で生活する人を国民と言います。わたしたちが国民として生きることは、その国のために義務を負うことでもあります。自分を含めて、その国で生活する人たちのために用いられる税金を納めて、国の働きが正しく行われるようにすることは、わたしたち国民の責任です。その責任によって選ばれた人たちが国を運営する人たちです。その人たちの働きを見張ることも国民の責任です。世界には多くの国がありますが、国によって国の働きのあり方が違います。国民はその国の働きにの下にあって守られています。守られているということは、税金への見返りのようなものだと思うかも知れませんが、実は見返りではなく国の義務なのです。義務ということは、当然そうすべきことだということです。国民を守ることが国の義務であり責任なのです。

イエスは36節で「わたしの国はこの世には属していない。」とおっしゃっています。原文では「わたしの国は、この場所から存在していない」となっています。では、どこから存在しているのか。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と37節でイエスはおっしゃっています。つまり、真理によって守られている世界を証するために来たのだとおっしゃっているのです。イエスの国は「真理から」、あるいは「神から」存在しているということです。この「から」という前置詞は起源を表していますので、神を起源として、真理を起源として存在していると、イエスはおっしゃっているのです。それはまた、イエスの国は神が創造し、真理が創造した世界であるということです。反対に「この場所から」存在している国は、この場所という地上の場所の価値観を起源としています。「この場所」が無くなれば存在しなくなる国です。

一方、「この場所」が無くなっても存在している国がイエスの国です。ということは、イエスが「この場所」に存在しなくなっても、イエスの国は存在しているのです。神から存在している存在は、神が存在している限り存在しているのです。神がいなくなれば、もちろん存在しなくなりますが、神がいなくなることはありませんから、神を起源として生きている人は、神と共に永遠に存在しているのです。

でも、わたしたちには神は見えません。神から存在していると言われても信じるしかありません。それで懸命に信じようとしますが、それは信じることではありません。自分で自分を信じさせようとしているわけです。その場合、わたしたちは信じているつもりになっているのですが、それが信じることでしょうか。自分を信じ込ませようとしているあなたは信じているでしょうか。信じているかどうか分からないから、信じ込ませようとしているのではないでしょうか。信じているならば、信じようとはしないのです。ただ、信じているだけです。わたしたちは、信じている自分を確認したくなります。信じることができていることを自分で確認することで、「わたしは信じている」と安心したいのです。でも、それは信じることではありません。信じている人は、自分の信仰を確認などしません。信じているので、確認する必要がないのです。

確認しようとする人は信じていない。信じるということが自然の状態であるならば、確認しようとするときには、自然ではありません。自然であるということは、わたしたちが生きている状態をいちいち確認しなくても生きていることと同じです。歩くとき、「わたしは歩いている」と確認しながら歩く人はいません。自然に歩いています。信じているときも、「わたしは信じている」と確認しながら信じるのではありません。

確認しない自然の状態で信じている人はイエスの声を聞いていると37節の最後で言われています。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。つまり、真理に属するものとして存在している人は、イエスの声を聞くのですが、普通に聞くのです。わたしたちが誰かの声を聞くときと同じように聞くのです。その人とわたしとの関係が深ければ深いだけ、わたしはその人の声を聞きます。自然に耳に入るのです。「この声を聞こうか、あの声を聞こうか」と考えて、聞く声を選んでいるのではありません。その人の声が聞こえてきたときに自然と耳が開くのです。イエスを信じることもイエスの声を聞くことも、自然なことです。そのような状態になっている人のことを、イエスはこのように表現しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(10:27)と。そのような羊はどうしてイエスの羊なのかと言えば、父なる神がその人をイエスの羊としておられるからです。

自然に生きているように、自然に信じる。自然に生きているように、自然にイエスの許へ来る。自然に生きているように、自然に真理に属している。この自然な状態の中で働いておられるのがイエスの父なる神です。その父の独り子がイエスであり、父の言葉ロゴスなのです。イエスは自然に父の独り子として存在しています。イエスの声を聞く人も自然にイエスの羊なのです。この自然さを壊さないように生きようとするのではありません。自然に聞き、自然に信じている人は、自然さを壊さないようにしようなどとは考えもしないでしょう。その人のすることは、人間の思惑がないので、神が与えることをそのままに受け入れて行う。それだけなのです。

「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」と36節でおっしゃるのもこの世の国にとっては当たり前のことです。しかし、イエスの国はこの世の国ではありません。それで、この世の国のようにイエスのために戦う部下など存在しない。この世の国とは違うのです。それで、イエスはすべてのことをそのままに引き受ける。それだけがイエスにとっての自然なのです。

イエスが生きているのは、人間が作ったこの世ではありません。神が造り給うた世界、神が治めておられる国です。だから、戦わない。戦う必要などない。起こってくることをそのままに受け入れるだけ。

では、わたしたちがすべてを受け入れるとしたら、罪も受け入れるのでしょうか。誰かが罪を犯すことを受け入れるのでしょうか。イエスはご自分を捕まえようとした下役の耳をペトロが切り落としたときにはこうおっしゃっています。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(18:11)と。こうおっしゃって、イエスは抵抗することなく、大祭司の許に連行され、裁判にかけられ、十字架刑に処されたのです。これもイエスにとっては自然なことでした。神さまのご支配の下にあるこの世の中で起こったことをそのままに受け入れているのです。

しかし、自分に対する罪は受け入れても、他者に対する罪は止めさせました。「剣をさやに納めなさい。」とペトロに語ったのは、ペトロが他者に対する罪を犯さないためでした。これが、イエスが立っておられるところ、父なる神の世界なのです。

そう考えてみれば、イエスが立っておられる神の国は、この世の国を超えている国です。この世の国を超えていますので、この世を包んでいるのが神の国です。その神の国の中に、この世の国が入っているとすれば、この世の国で如何なることが起ころうとも、最終的には神の国の中で神のご意志に従って、すべてが用いられていくことになります。それが、イエスの十字架と復活です。そして、十字架は信じる者を救う力となったのです。

聖霊降臨後最終主日は、永遠の王キリストの日とも言われます。永遠のいのちに生きているキリストは、この世の国を超えた神の国を支配しておられる王であるということです。これはダニエル書7章14節に預言されている通りです。この王権を与えられたキリストを覚える日が、聖霊降臨後最終主日なのです。ということは、世の終わりを覚える日であり、新しい世界の始まりを覚える日です。キリストが王座に就くということは新しい始まりです。神の国の始まりなのです。しかし、始まるとは言っても、無かったものが始まるのではありません。あるものがあるものとして見えてくると言った方が良いでしょう。

わたしたち人間の目には見えない国が、イエスがおっしゃる「わたしの国はこの世には属していない。」という国なのです。わたしたちの目に見えない国がすでに存在している。その国は、世の初めから存在している。その国の中で、わたしたちの目に見える世界が動いているのです。ですから、わたしたちの世界で起こることは、最終的には見えない神の国の中で起こっていることになります。目に見えない神の国の中で起こっていることは、見えないところで働いておられる神さまの働きなのです。神さまの働きに反対して起こってくるわたしたち人間の働きが成功するように思えるとしても、その人間たちを造られた神さまのご意志の中で、最終的に神さまのご意志に従わざるを得なくなる。それが終末に起こるであろうこの世の滅びというものです。この世の滅びとは、この世の力が働かなくなること、この世の論理が働かなくなることなのです。

教会の一年を閉じるにあたって、わたしたちはこの神の国が今まさにわたしたちを包んでいることを信じて、すべてを神に委ねて生きて行きましょう。「わたしの国は、この世には属していない。」とおっしゃるイエスに従って。

Comments are closed.