「イエスの前に立って」

2024年12月1日(待降節第1主日)
ルカによる福音書21章25節-36節

物事には始まりと終わりがあります。終わりが初めにあるということはありません。しかし、今日の日課は、人の子の来臨についてのイエスの言葉です。この来臨は終末における人の子の再臨の様子ですが、教会のこよみの始めに終わりのことが読まれるのはどうしてなのでしょうか。終わりがあって、始まりがあるということであり、終わりと始まりは一つであるということです。

もちろん、始まりがあって終わりがあるというのは、わたしたちが経験している経過する時間の中でのことです。経過する時間の中から出ることができないのが、わたしたち人間です。誰も過去に戻ることはできませんし、未来に行くこともできません。今置かれている現在で生きるようになっています。ところが、神さまはわたしたちを経過する時間の中に置かれたお方ですから、わたしたちの時間のどの時代であろうとも存在しておられるのです。いえ、存在しているというよりも、神さまがすべての時間を御手の中に包んでおられるのです。そのような神さまがわたしたちの時間と空間を支配しておられる、ということが「神の国」とイエスがおっしゃっていることなのです。

31節でイエスはこうおっしゃっています。「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」と。この「神の国が近づいている」という言葉は、マルコによる福音書ではイエスの宣教の始めに語られています。そこではこう言われています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。ルカによる福音書では、イエスの宣教の初めにはこの言葉はありませんが、人の子の再臨の言葉の中にあるわけです。どちらの言葉も「神の国が近くに存在している」という言葉です。この言葉が語っているのは、神の国はすぐ近くにあるということであり、気をつけて見ていれば分かるのだということです。

神の国は、わたしたちの近くに存在しているのですが、わたしたちの見る目が開かれていないだけだということです。その目を開いてくださるのは、人の子であるイエス・キリストです。このお方が、わたしたちの目を開くために来てくださる出来事。これがイエス・キリストの来臨なのです。

イエスの来臨は、終わりであり、初めであると言えます。それは、初めも終わりも神の御手の中に包まれている出来事だということです。そう考えてみますと、教会のこよみの初めにイエスの来臨の言葉を読むことは、教会の歩みは神の御手の中にあるということなのです。この来臨の出来事に対する態度が、今日の日課に記されています。それは「イエスの前に立つ」という姿勢で生きることです。36節で「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」とイエスがおっしゃっている通りです。

「人の子の前に立つ」という言葉が語っているのは、最後の審判の様子です。最後の審判において、わたしたち人間は人の子の前に立つのです。そして、自分が神に従って生きたか、神に反して生きたかを吟味されるのです。だからこそ、この地上の経過する時間の中で生きるときにも、人の子の前に立つことができるように、祈りなさいとイエスは勧めるのです。実は、原文では、「すべての神の時に、祈る者たちとして目覚めていることを守ること」が進められているのですが、その目的がこのように述べられています。「最後のときに起こってくることから逃れることができるために」、そして「人の子の前にたつことができるために」という二つの目的が述べられています。この二つのために祈る者であるように自分を見守りなさいということです。それはまた、神の国、神さまが支配しておられる働きがすぐそばで起こっていることを忘れないということです。つまり、わたしたちは何時如何なるときにも、神さまの支配から逃れることができないということです。これを忘れないために、祈る者たちであることを守りなさいとイエスはおっしゃるのです。

そんなことを言われても、いつ来るかも分からない出来事が本当に起こるのかと思ってしまいます。来なかったならば、やってきたことが無駄になるのではないかとも思うでしょう。それが必ず起こることが保証されているのであれば、イエスさまの言葉に従って、祈る者であるように自分を見守ることもできるでしょう。でも、不確かなことについて、本当に信じていて良いのかと思うのが人間です。何の保証もないのであれば、祈っていても意味がないとも思う。二千年以上前にイエスがおっしゃったのに、未だに終末は来ていないではないかと思う。本当に来るのだろうかと思う。それは仕方ないことでしょう。信じることができないならば、守ることもできないのですから、信じていなければ守るはずはないのです。ということは、これを守っている人は信じているということです。信じている人たちが祈る人たちなのです。その祈りは、いつもイエスの前に立つ祈りなのです。だから、わたしたちは祈りに際して、「わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と結ぶのです。わたしたちが毎週の礼拝を守るのは、このイエスの言葉に従って、イエスの前に立つ祈りを忘れないためなのです。

さて、あらゆることが起こることで、天地が滅びるとおっしゃった後で、イエスはこうおっしゃっています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と。天地というものは、神さまが創造した世界です。それが滅びるとイエスは言うのでしょうか。ここで語られている天地とは、目に見える天地であり、もともと神さまが創造した天地は見えない天地です。目に見える天と地は、神さまが創造された天と地を原型として、わたしたちに見えるように現れているものなのです。目に見える天地は滅びるが、イエスの言葉は決して滅びない。なぜなら、イエスの言葉を聞いている者たちは滅びないからです。彼らは目に見える天地に属してはいない人たちです。イエスの言葉のうちに生きていますので、目に見える天地が滅びようとイエスとの関係は残るのです。目に見える世界の価値観そのものが効果を発揮することがなくなっても、このイエスの言葉を聞いている者たちの魂は聞き続けるのです。これが、祈る者です。

イエスの言葉を聞いているということは、目に見える世界に捕らわれていないということです。目に見えるものに捕らわれている人たちは、イエスの言葉を聞いていないのです。だから、先ほどわたしが言いましたように、本当に信じられる言葉なのかと考えるのです。信じていても、終わりが来なければ、無駄だと考えるのです。そのような人たちにとっては、この地上の経過する時間がすべてですから、その時間の中で上手く行くことを考えるようになります。しかし、信じる人たちは、この世の経過する時間を越えている神さまの御支配を信じていますので、この世で上手く行くことを考えることはありません。むしろ、いつもイエスの前に立って祈るのです。この世の中で、苦難を負わされたとしても、耐えることができますようにと祈っているのです。この世の苦難がすべてではないと信じていますので、この世の苦難の先にある神さまの世界が開かれるようにと祈っているのです。これがキリスト者です。キリストの者とされたわたしたちは、キリストによってこのように生かされているのです。

わたしたちキリスト者もまた、この世の時間の中に縛られている肉を持っています。その肉から逃れられない自分自身を知っています。そこから解放してくださったのはイエス・キリストであることを知っています。だからこそ、わたしたちは将来においても、この世の経過する時間から解放されることを信じて、今を生きるのです。将来やってくる終わりの日に、人の子の前に立つことができるわたしであるようにと祈りながら生きるのです。

人の子の前に立つということは、自分の罪を認めるということです。罪深い存在であることを認めるということです。自分が加害者であることを認めることです。イエスの前に立つ人は、被害者であることを主張し続けることはできないのです。なぜなら、イエスを十字架に架けたのは自分自身の罪であることを受け入れているからです。イエスの前に立つ祈りを献げる者は、他者を裁くことなどできないことを知っています。わたしたちが誰かを裁くことができると思い込んでいるのは、自分が罪など犯したことがないと自分を誤魔化しているからです。わたしたちは、皆罪人です。義しい者は一人もいないのです。この事実を受け入れた人が、キリスト者であり、人の子の前に立つ者なのです。

イエスの前に立つ祈りを献げる人を、イエスは受け入れてくださり、赦してくださる。これが最後の審判の時に起こることです。そのときまで、祈り続ける者であるように、イエスはご自身の体と血をわたしたちに与えてくださいます。イエスの十字架を起こしたわたしたちのために、ご自身の体と血を与えてくださるイエス。このお方の前に立つことができますように、共に祈りましょう。

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