「神さま本通り」

2024年12月8日(待降節第2主日)
ルカによる福音書3章1節-6節

道には二つあります。いわゆる小道や脇道と本通りです。小道や脇道は、人々が何度も通るうちに道になっていきます。本通りは整備された道です。人間社会においては本通りは人間の手によって造られた道、幹線道路です。ローマ帝国時代から、いえそれ以前の王国にも敷石が敷かれた幹線道路がありました。一方、小道や脇道は、もともとは人々が生活に使っていた生活道路と言えるものです。この二つの道は、いずれにしても道です。どこかへとつながっている道です。

さて、今日の福音書の日課で引用されているイザヤ書40章の預言の言葉に出てくる「主の道」というのが大通り、本通りです。「その道筋」と訳されている言葉は「彼の通って踏み固められた小道たち」です。ここで「彼」と言われているのは「主」なる神のことです。しかも、通って踏み固められた道は複数形ですから、複数あると言われているわけです。その小道たちを「まっすぐに」造れと、荒野の声は呼びかけるのです。これはどういうことでしょうか。

小道、脇道、生活道路は、神さまがさまざまな機会に通られた道がたくさんあるということでしょうか。あるいは、悩める一人ひとりが通って、神さまの許に行った小道かもしれません。でも、それが踏み固められた小道であるならば、一人の人だけではなく、多くの人が通った小道だということになります。もし、それが生活道路であるならば、誰もが通るであろう、利用するだろう小道だということです。どうして、そのような生活道路が生まれるのでしょうか。

一人の人が神さまの許へ行って、うまく行ったと感じた場合、その人は誰かに伝えるものです。あそこを通ると神さまのところに行ける、と。そして、同じように悩む人がうわさに聞いた生活道路を利用する。こうして、踏み固められた小道ができる。その小道は言い伝えられていたのかも知れません。こうすれば、神さまに会えると。それらの道は、曲がりくねっているのでしょうね。あちらに行き、こちらに行き、行き悩み、苦しむ人がいる。それぞれに教えてもらおう、あるいは、救ってもらおうと歩む道のたどり方は違うのです。こうして、複数の小道ができた。あちらに、こちらにと踏み固められた道がある。それらをまっすぐに造るということは、道を造成するということです。

「まっすぐに」ということは、神さまに向かってまっすぐに延びるように造るということでしょう。あちらにこちらにと入り組んで、曲がりくねっている道が、まっすぐに神さまに向かうように造成される。神さまが歩いていく本通りに、一人ひとりとの小道がつながっていく。まっすぐに神さまの本通りに向かうように、道を整えなさいと声は言うのです。つまり、神さまに向かう通り道、神さまが来られる本通りが整えられることによって、一人ひとりの人間が神さまとのつながりを回復するという象徴的な表現です。そして、神さまが歩み行く本通りが整備されることで、神さまが人間たちの真ん中を歩いて導いて行かれる。このような世界が来たるように、洗礼者ヨハネは派遣されるとイザヤは預言したのです。

もともと、このイザヤ書40章の預言が語られたのは、紀元前587年にバビロニア帝国に侵略され、捕虜としてバビロンの地に連れていかれたバビロン捕囚という40年間の苦難の後です。最後の捕囚が紀元前578年でしたから紀元前538年に解放されたときには40年経っていました。40年の苦難の後に、ペルシアのキュロス王によってバビロニア帝国が滅ぼされて、捕囚の民は解放されました。母国に帰還することが許されたのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」と始まるイザヤ書40章は、イザヤの弟子である第二イザヤと呼ばれる預言者の言葉が記されていると言われています。母国へと帰還する民が歩む道を整えよということですが、それは一人ひとりの心がまっすぐに神に向かう心の道を整えよという意味です。まっすぐに神の言葉を聞くようにという勧めです。

40年の苦難の後に、帰国する民を導く神の本通りを整備し、民一人ひとりの小道も神の本通りにまっすぐにつながるように整備せよと神は言う。わたしたちは、道を通って、どこかに行く。道を通って、誰かとつながる。その道がでこぼこではないように、曲がりくねっていないように、山も谷もなくなり、平らな道を通ることができるように、神はそのように民に語り掛けたのです。ここには、人々の平等性が語られているように思えますが、実は神とつながる道が平らであるように、つまり平和であるようにということです。神に信頼して、まっすぐに神に向かう一人ひとりであるようにという意味です。

わたしたちが信仰に入れられるまで歩いてきた道は、どうだったでしょうか。あちらの神さまが良いかもと思ったり、あの人の教えが良いかもと思ったりして、うろうろしていたのではないでしょうか。自分自身を見出すために、迷い続けていた。その果てに、イエス・キリストの父なる神に出会った。それぞれの道は曲がりくねっていたでしょう。しかし、神に出会った後のわたしたちの道はどうでしょうか。まっすぐになっているのでしょうか。未だに、曲がりくねっているのではないでしょうか。信仰を起こされてもなお、苦難の中にいるのではないでしょうか。そうであれば、洗礼者ヨハネが整えよと叫んだ言葉は実現していないのでしょうか。いえ、イエス・キリストの十字架において、実現したのです。

まっすぐに神に向かう道は、十字架の道であることが明らかになったのです。わたしたちが、信仰を起こされても曲がりくねった道を歩いているとしたら、わたしたちが信仰を見失ったり、また見出したりしているだけなのです。あるいは、苦難の道を避けて、楽な道を通りたいと思って、曲がってしまうのです。

キリストの十字架の道はまっすぐです。神にまっすぐに向かって伸びています。整えられた道とは、苦難の道なのです。本通りは苦難の道。その苦難の本通りに至るには、信仰が必要です。普通の考え方では、そんな苦しい本通りなど行きたくないと思えるでしょう。しかし、イエスに従うことは楽な道ではありません。楽をしたいと思って、教会に来たとしても、楽ではないと言われると、何のために教会に来たのだろうと思うでしょう。「苦労して、教会に辿り着いたのに何だよ」、と思う。そのような人たちに、洗礼者ヨハネは語りかけています。

洗礼者ヨハネの許にやってきた人たちは、救われるために来た。救われるためなら、何でもしようと思ってやって来た。バビロン捕囚から救われた民が帰国する際にも同じように思ったことでしょう。彼らも、自分の国に帰り着くことができるなら、何でも我慢しようと思ったでしょう。その道が楽であるようにと願ったでしょう。そのような一人ひとりが救われるためにしなければならないのは、まっすぐに神に向かう魂となることだとイザヤは言うのです。そして、洗礼者ヨハネも同じように、神にまっすぐに向かう魂となるように勧めるのです。その言葉については、来週の日課で聞きますが、今日の日課では洗礼者ヨハネの派遣された意味が述べられているのです。

洗礼者ヨハネは、主の道を整える役割を与えられたと言われているのですが、主の道とはイエス・キリストの道です。その道は苦難の道です。苦難の道を本通りとして神はやって来る。キリストはやって来る。そのお方を迎えるとすれば、迎える人たちも苦難の道に立つことになるのです。苦難の中で、主を迎えるのです。

クリスマスは、喜びの日だとわたしたちは思っています。うれしい日だと思っています。もちろん、主イエス・キリストがお生まれになった良い日です。うれしい日です。しかし、そのお方は苦難の本通りを通っていかれるお方です。苦難を本通りとするお方がイエス・キリストです。このお方の道に自分の道をまっすぐにつなげる人は、苦難につながる人だということです。苦難を誇る人だということです。使徒パウロが言うように、「苦難をも誇る」という歩みをする人です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を、働き生み出す」(ローマ5:3-5)とパウロは語っています。だから、苦難をも誇ると彼は言うのです。苦難から希望へという本通りがある。この道を通ってこそ、希望に至る。その道を通ろうとすることが、主の道をまっすぐにすることなのです。

わたしたちキリスト者は、苦難の本通りを通る者たちです。楽な道を選びたくなる罪人である自分を知っている一人ひとりです。楽な道を選びたくなるけれど、主が通っていかれた本通りを知っている一人ひとりです。キリストの本通りは、苦難の本通り。神さま本通りは苦難の本通り。その道の先にこそ、希望がある。「狭き門から入れ。」、「狭き戸口から入れ。」とイエスがおっしゃったのもこの苦難の道のことです。誰もが通りたくなる道、ではなく、避けたくなる道を通ってこそ、イエスに従う道を歩むことができるのです。

わたしたちが避けたくなるところにこそ、真実のいのちがあることを教えてくださっているのが、キリストの十字架です。この十字架の道を歩むために、キリストはクリスマスに生まれるのです。このキリストを迎えるわたしたちが整える道は、まっすぐに苦難を引き受ける道なのです。主をお迎えするわたしたちの魂の道がまっすぐにキリストに向かう道でありますように。キリストがあなたのところにまっすぐに来てくださるように。一人ひとりの道を整え、お迎えしましょう。

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