2024年12月15日(待降節第3主日)
ルカによる福音書3章7節-18節
物事は小さなところから始まります。いきなり大きなところから始める人もいるかも知れませんが、大抵の人たちはちょっと試しにやってみて、上手く行ったら本格的にやるものです。自然にしても、小さな種から大きな木になります。悪いことを起こす心も最初はこの程度のことは大したことではないと思える小さなことに潜んでいます。放っておくと、その心は大きくなっていきます。ですから、小さいうちに芽を摘んでおくことが必要になってきます。しかし、どれだけの人が小さなことをた悪の芽だと考えるでしょうか。
今日の聖書は先週の続きの箇所ですが、「神にまっすぐに向かう魂となる」ために何が必要かということが語られています。ここで、洗礼者ヨハネが語っている事柄は、大したことではありません。余分なものを持っているなら、他者と分かち合いなさいとか、規定以上のものを求めるなということです。洗礼者ヨハネの勧めは、十戒に沿った当たり前のことです。それこそが、「神にまっすぐに向かう魂となる」ことだと言うわけです。この十戒に反する生き方を貪欲と言います。その貪欲がどこから生まれるのかと言うと、習慣というものから生まれるのです。
わたしたちは、習慣というものに縛られています。これまでこうしてきたから、これからもこうしましょうと考えることは、誰にでもあるものです。そうしておけば、失敗しても、以前と同じようにしただけですと答えれば良い。また、前例がないから、と新しいことに取り組まない人がいますね。新しいことに前例がないのは当たり前のことです。前例がないということで何も始めないとすれば、新しいことが始まることはありません。これが習慣の呪縛というものです。その呪縛の大元にあるのは「貪欲」だと述べたのはハンナ・アーレントという哲学者です。
ハンナ・アーレントは、「エルサレムのアイヒマン」という著書の中で、無・思考性、つまり考えないということが原罪の姿であり、悪は考えないことによって行われると言った人です。ハンナ・アーレントは、人間の原罪を見つめた哲学者です。彼女が最初に書いた「アウグスティヌスの愛の概念」という本の中で、「貪るなかれ」という十戒の第9、第10の戒めは第4の戒め以降の人間の事柄における中心点であると捉えています。この貪欲が生まれるのは、人間生活の習慣というものからだと述べています。人間が神に造られたものであることを認めることによって、限りあるいのちであること、死ぬべき存在であることを認めることになる。そこから「貪欲」が働いて、習慣に逃れることが起こると、彼女は考えを進めています。
洗礼者ヨハネが人々に言う言葉が今日の日課にありますが、ヨハネはこう言っています。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と。このヨハネの言葉が語っているのも、人間が神によって造られた死すべき存在であるということです。自分たちにはアブラハムがいると言って反論する人間たちに対して、アブラハムも造られた存在であり、その子孫も同じく造られた存在だと述べているのです。ヨハネの言葉は、人間の思い上がりを戒める言葉です。死を恐れることによって、何かを自分のものとして積み上げることに逃れる。祖先に逃れる。過去に逃れる。これが習慣を作り上げる考えの根源にあるとアーレントは捉えました。習慣は「貪欲」によって作り出されると言うのです。
この考え方は良く分かります。わたしたちが、あの頃に戻りたいと思うのは、良かった時代に戻りたいというものです。しかし、あの頃は二度と戻ることはないのです。わたしたちが生きている時間軸は後戻りすることはありません。二度と同じことは起こらない。同じに見えて、日々新たな日が造り出されている。それなのに、自分にとって良かった時代に戻りたいと考えるのは、未来に向かう生き方ではなく、何かに取り組むということでもなく、いままで通りやっていれば、失敗しないという考え方です。このような考え方こそ、わたしたちの習慣を作り出している「貪欲」という原罪だとアーレントは見抜いたのです。これこそ、物事の本質を見抜くさとい眼力・鋭い洞察力、つまり慧眼(けいがん)というものです。
習慣というものに従っていれば、考える必要がありません。考える必要がない状態を保ちたいと普通に思うことが習慣を作り出すわけです。貪欲は、過去に縛られています。過去が良い。古いことが良いと考える。イエスが「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ5:38)と言った後でこうおっしゃっています。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(ルカ5:39)と。これが過去への執着である習慣、昔の人の言い伝えに対する批判だとは誰も考えたことがないでしょう。しかし、そこに、原罪の姿があるのです。
わたしたちは、どうでしょうか。執着していますよね。過去に、これまで行ってきたことに、慣れていることに、執着しています。新しいことに対応するために、またゼロから始めなければならないと思うと、躊躇します。洗礼者ヨハネが人々に勧める十戒の基本的な姿は、神さまに与えられているもので満足せよということです。与えられているもの以上に積み上げようとすること、それが習慣に縛られていることだとは、誰も考えないでしょう。この在り方は、新しいことを拒否し、今まで通りに行いたいという思いに潜んでいるのです。兵士になれば、給料以上にお金を獲得しようと、人々を脅し、お金を巻き上げる。それは、兵士なら誰でもやっているではないかと考えて、兵士同士では誰もおかしいとは言わない。誰も自分が損することをしたくない。義しいことを言えば、「自分だけ良い子になろうとしているのか」と批判される。だから、誰かを犠牲にして、自分が得をするように動く。世の政治家という人たちも同じですね。
貪欲と言うと大変なことのように思えますが、貪欲の小さな形が余分なものを溜め込む生き方。過去にこだわる生き方。習慣から離れることができない生き方です。しかし、小さなものである余分なものを捨てることによって、大切なものを守ることができるのです。
話は飛びますが、ルターの礼拝改革も同じです。余分なものを捨てて、礼拝の大切な部分を残した。当時の人々は、今までの慣れ親しんだ礼拝式とは違うということで、批判したのです。過去に戻りたいと考えた。しかし、大切なものを守るならば、再生していくのです。新しいものが始まるのです。新しい世界に入って行くことができるのです。その世界こそ「まっすぐな」世界です。まっすぐに神に向かう世界です。
神の意志は十戒に示されていますが、十戒の基本的姿勢は人間が貪欲を捨てるようにということです。それは与えられたもので満足することであり、神に造られた存在であることを認め、受け入れることです。そのとき、わたしたちは神の世界に入っています。神の国に生きることができるのです。洗礼者ヨハネは、神の国に入るための備えを人々にさせました。イエスご自身は、神の国そのものとして人々の間に来てくださった。神の国を体現するお方として来てくださった。このお方を迎える備え、それが洗礼者ヨハネの働きでした。
福音とは、神の国がわたしたちの間に存在していることを知ることです。受け入れることです。神の国そのものであるイエス・その福音の中で、わたしたちが神の前に、イエスの前に立つ終わりの日を望み見ながら、今を生きること。この在り方が、イエスが来てくださることで実現するのです。真実でまっすぐないのちを与えるために、来てくださるイエス・キリスト。余分を求めることなく、神さまが与えてくださったものに感謝して、喜び生きる一人ひとりでありますように。新しい世界を生きるために、古い世界に別れを告げ、神に導かれるままに未来に向かって生きていきましょう。
その未来は、わたしたちが貪欲を捨てることによって見出すことができる小さな喜び、小さな未来。貪欲を捨てることによって、わたしたちは神の愛を丸ごと受け取ることができるのです。新しいいのちを受け取ることができるのです。貪欲を捨てることによって、神の新しい世界に入ることができるのです。
小さな小さなパンとぶどう酒を通してわたしたちが受け取るのは、神の大いなる喜びの未来です。神の大いなる喜びは、小さなもののうちに宿っています。神の大いなる未来は小さな嬰児のいのちそのものです。あなたのために、小さな嬰児として生まれてくださる主イエス・キリスト。クリスマスの日に、主の喜びがあなたのうちに満ち溢れますように。神の新しい未来があなたの前に開かれますように。