2025年1月1日(新年聖餐礼拝)
マタイによる福音書25章31節-46節
わたしたちは何かを見て感じることがあります。新しい年が始まったということを感じるのは、門松を見たり、お正月のテレビ番組を見たりするときでしょうか。町の飾りや道行く人の服装や手荷物を見て、季節を感じるときもあります。自然の草木を見て感じることもあるでしょう。わたしたちは見ているものによって何かを感じています。しかし、何も見ていないのに感じることがあるでしょうか。ありません。わたしたちは見ているものに影響を受けるのです。見ていないものには影響を受けません。
今日の福音書に出てくる羊と山羊のように分けられている右と左の人たちは、どちらも王を「見ていない」と言っています。では、彼らは何を見たのでしょうか。右の人たちが見たものと、左の人たちが見たものは違うのでしょうか。いえ、同じです。「飢えていた」人を見ています。「のどが渇いていた」人を見ています。「旅をしていた」人を見ています。「裸の」人を見ています。「病気の」人を見ています。「牢にいた」人を知っています。しかし、王は見ていないのです。そして、どちらも見ているのです。困窮の中にある人を、苦難の中にある人を、どちらも見ているのです。しかし、その対応は右と左では違っていました。同じものを見て、違う反応をした。それについて、最後の審判の際に裁かれるとイエスはおっしゃっているのです。これは大変なたとえです。厳しいたとえです。彼らが見たものが同じであっても、感じたものが違うということです。ということは、同じものを見ていながら、違うことを感じているということです。見ているものが同じなのに、感じるものが違うのです。そこに、右と左の違いがあります。
それにしても、どちらの人にも見られていないと言われる王は、どうして言うのでしょうか、「これらの小さな人たちにしたことは、わたしにしたことである。」と。また「しなかったことは、わたしにしなかったのである。」と。小さな人たちは、王の兄弟だと言うのです。どうして、そうなのでしょうか。
王は王です。苦難を負った人たち、見捨てられた人たちと同じはずがありません。それなのに、王はわたしの兄弟だと言うのです。王が、彼らと同じ境遇に置かれたということでしょうか。そうであれば、この王はイエス・キリストだということになります。イエスはそのような意味で、このたとえを語られたのです。イエスは旅をしていました。空腹で、喉が渇いていました。牢獄に入れられました。裸にされ、鞭打たれました。そのときに、弟子たちは逃げ出した。イエスと一緒に苦難を負った人はいませんでした。だからこそ、イエスは同じ境遇に苦しむ人たちの兄弟なのです。たった独りで、十字架を負われたイエス。このお方は、すべての苦しむ人たちの兄弟です。不当にも訴えられ、罵られ、十字架を負わされた人たちがたくさんいます。誰かが責任から逃れるために、責任を押し付けられて、引き受けざるを得なかった人たちがいます。そのような人たちの兄弟がイエス・キリストなのです。イエス・キリストは苦しむ人たち、最も小さな人たちの長男です。
わたしたちは、イエスの兄弟のように、イエスの姉妹のように、苦しめられる側にいるのでしょうか。あるいは、イエスを苦しめた人たちと同じ側にいるのでしょうか。自分の失敗を、その人たちに押し付ける。誰かの所為にして、自分は責任を逃れる。世の政治家と言われる人たちも同じようです。このような人間が原罪を負っていることを、わたしたちは知っています。しかし、自分は誰かの所為にしてはいないと思っています。責任を負っていると思い込んでいます。だから、その誰かを見てはいないのです。誰かの苦しみを見てはいないのです。
わたしたちが見ているのは、自分です。他者を見ることはない。他者は自分が利用する存在です。自分の側に付いてくれる人しか見ない。それが左の人たち、山羊の側にいる人たちです。彼らが見ている苦しんでいる人たち、困窮している人たちは、悪い人間だから苦しんでいると見ているのです。もしかしたら、山羊の側の人たちが、自分を批判する人たちを牢獄に入れたのかも知れません。だから、神の罰を受けていると見ている。自分はこんな人間にはならないと思っている。自分が苦しめているとは思ってはいない。この人たちは愚かだったからこうなっているのだと、見ているのです。山羊の側の人たちは、他者の苦難を自業自得だから仕方ないと見ている。
反対に、羊の側、右にいる人たちは、山羊のような人たちから苦しめられていた人たちでしょう。自分も同じ経験をしたことがある人たちでしょう。義しいことが行われるように願っていた人たちでしょう。この人たちは、裸で、飢えて、喉が渇いている人たちに、自分を見ているのです。自分の苦しかった経験を見ているのです。だから、最も小さな人たちの気持ちが分かる。何とか助けたいけれど、その力もない。せめて、喉を潤す水を、空腹を満たす食べ物を差し出す。
羊の人たちも山羊の人たちも、同じ人間たちを見ている。そして、それぞれに違うように感じている。自分のこととして感じる人たちと、他人事として感じる人たち。この違いは、苦しんだ経験があるかないかの違いでしょうか。いえ、魂の問題なのです。
たとえ、同じ苦しみを経験していても、その人の魂が曇っていれば、感じることはないのです、自分と同じ苦しみを経験しているとは思わないのです。同じ苦しみではなく、そこから抜け出して、権力側についた自分は頑張ったのだと思っている。そして、そこに陥っている人を高見から見ている。同じ経験をしても、魂が新しくされていない人は、結局自分を苦しめた人と同じ魂のままに生きる。これが内なる人間の問題。原罪の問題です。
だからこそ、イエスは最後に言うのです。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」と。この言葉の中で「受ける」とか「与る」と訳されている言葉は同じ言葉です。「彼らは出向いていく」という言葉です。出向いていくということは「受ける」とか「与る」というよりも、自分からそこに入っていくという意味です。ですから、山羊たちは「永遠の罰へと入って行く」のです。羊たちは「永遠のいのちへと入って行く」のです。自分からそこに入っていく。これが神さまによって分けられることであるならば、必然的にそこに入るようにされるということなのです。
羊たちは羊たちのいるべき場所へ出向いていく。山羊たちは山羊たちがいるべき場所へ出向いていく。それは、自分が裁きを選ぶということです。永遠の罰に入っていくことを選ぶのは山羊。永遠のいのちに入っていくことを選ぶのは羊。それだけなのです。ですから、自分から方向転換することができない。これが選びです。そのようになってしまっているということです。
このように言われると、そうならないようにどうすべきなのかとわたしたちは考えるものです。山羊の側の人たちがそのように考える人たちです。羊の側の人たちは、そうならないように生きることはない。そうなったならば、なったように引き受ける。ですから、他者の苦しみも分かる。それが羊の側の人たちです。
苦しんでいる人に自分を見ているのか。苦しんでいる人たちに自分とは関係ない人間を見ているのか。自分はそうならないように何とかやってきたと思っているのか。自分も同じように苦しめられたと、彼らに寄り添うのか。そこに違いが生まれます。この違いを誰も自分で越えることはできないのです。ただ、神のみが越えさせることができる。では、どうすれば良いのでしょうか。わたしにはどうしようもないと受け入れるしかない。そのとき、他者の弱さ、苦しさを同じように感じる者とされるのです。
イエスは、あえてこの言葉を語っています。わたしたちに聞く耳がないとしても語っています。イエスのこの言葉が語られていることで、聞く耳を開かれる人がいるかも知れません。イエスの言葉が入って来るときが与えられるかも知れません。イエスは、ご自身の言葉をもって、ご自身の魂に導くために語り掛けてくださるのです。イエスの言葉は、わたしたちをイエスと同じものを見るように導くのです。イエスの言葉を聞き続ける者に、イエスと同じ霊が与えられるのです。
イエスの言葉と共にいただくパンとぶどう酒もそうです。イエスの言葉がなければ、パンとぶどう酒です。イエスの言葉が語られることによって、パンとぶどう酒がイエスの体と血として、わたしたちに与えられる。イエスの言葉によって、イエスご自身と一つの魂とされる。この幸いを感謝しましょう。これからの一年、みなさん一人ひとりの魂が、イエスの言葉を聞き続けるものでありますように。イエスの言葉の中に、自分自身の罪を見る者でありますように。そのとき、あなたは罪から解放されて、イエスの前に立っているのです、イエスの兄弟姉妹として。