「前進するイエス」

 2024年12月29日(降誕節第1主日)
ルカによる福音書2章41節-52節 

五日前に生まれた子がいきなり12歳になることはありませんが、今日は12歳のイエスの出来事です。12歳になるということは、2000年前で言えばほとんど大人です。身体もがっしりしてきて、仕事もできるようになる。おそらく、イエスも父ヨセフの仕事、家具作りを手伝っていたことでしょう。それでも、まだ幼さが残っている年齢ですね。そのようなイエスが今日出てきます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」と。 

ここで言われているのは「イエスは前進した」ということです。「知恵に、背丈に、恵みに、前進した」と原文にはあります。そして最後に「神と人の前で」と付け加えられています。イエスの前進は「知恵に、背丈に、恵みに」見える前進だったということですが、それが人の前で見える前進であるだけではなく、神の前でも見える前進だったということです。この前進とはどのような前進なのでしょうか。 

前進するということは、さまざまなことが前に向かって進んで行くことです。それが知恵であれば、知恵が増していくと言います。身体であれば、身体が成長していくと言います。恵みであれば、恵みが溢れていくと言います。前進するということは、何かが増加することのようにわたしたちは思っています。果たして、前進とは増えることだけなのでしょうか。減っていくことは、前進とは言わないのでしょうか。 

より良くなることを前進と呼ぶとすれば、何かが増えていくことのように思えます。確かに、こどもたちの身長が伸びていくとき、わたしたちは彼らは前進しているように感じます。知恵が増えていくときにも成長していると感じます。さまざまな良いことがその子に起こるとき、神さまにたくさん愛されているのだと思います。より良くなることは増えたり、深まったりするときだと思います。では、年老いていくことはより良くなることではないのでしょうか。 

わたしたちは前進しているはずなのです。新しいことに向かって進んでいるはずなのです。しかし、朝起きて、前に向かって進んでいると思えるのは、成長期のこどもたちについてだけのように思っています。何だか、昨日よりも背が高くなっているとか。何だか、昨日できなかったことができる気がするとか。一方で、高齢者は、老いていくと感じてしまいます。できないことが増えていく。できないことが増えて、後退していると感じます。できることが減っていると感じます。このような感覚によって、減ることを悲しむことにもなります。 

では、年老いてくると、毎朝、また後退したと思うのでしょうか。やはり、今日は、何か新しいことが始まるのではないかと期待するものです。夜には不安に思うこともあるでしょうが、でも朝には何か希望があるように思えます。これは、わたしそのものが古くなっても、能力が減っても、わたしを包む世界が新しくなることへの期待でしょう。誰であろうと、目覚めて、新しくなる世界を望み見ることは当然のことです。 

もちろん、わたしたちが考える前進は、前に向かっていくことなので、良くなること、増えることだと思います。確かに、前に向かうことは良くなることです。それが自分にとって良くなることなのか、神にとって良くなることなのか。自分を中心に考えるのか、神を中心に考えるのか。そこに違いが生まれます。そうは言っても、人は自分を正当化するために、自分は神に従ってこのようにしているのだと言うものです。口では何とでも言えます。しかし、自分の魂は嘘をつくことができません。だからこそ、本当の自分を知っている魂は苦しむのです。 

わたしの罪が増していくと感じることは前進ではないのでしょうか。わたしの罪を認識することは知恵が増すことではないのでしょうか。わたしの身体が悪いことに誘うことができないようになったと感じることは前進ではないのでしょうか。悪いことができなくなるということは良いことではないでしょうか。そう考えてみれば、何かができなくなるときも、わたしたちの魂は前進しているのではないでしょうか。それが神の前に前進することではないでしょうか。 

イエスが知恵に、身体に、恵みに前進したということは、人から見れば知恵が増し、身体が大きくなり、さまざまな良いことがイエスに起こっていると見える。しかし、イエスの内側では、魂が神の前に謙虚になっていく。通常ならば、外側の力が増していくとき、わたしたちは傲慢になります。ところが、謙虚になって行くとしたら、イエスは外側の力に左右されないところに生きているということです。それが、イエスの言う「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」という言葉が語っていることではないでしょうか。 

イエスの父の家とは神殿のことではなく、父の世界、つまり神の世界にイエスがいることは当然だという意味でしょう。なぜなら、イエスの言葉の原文は「自分の父のものたちの中に、わたしが存在していることは必然である」という意味だからです。イエスが存在しているのは、「父のものたちの中」、つまり父が創造したものたちの中だということです。それは神の世界です。だから、「どうして捜すのか」とイエスはマリアに答えているのです。このイエスの言葉は、イエスが見ている世界です。そして、人間たちはこのイエスが見ている世界が見えない。それゆえに、イエスが言うことが分からない。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」と言われているのは、母には分からないけれど、イエスの言葉を心に納めて、考えていたということです。 

イエスがおられるのは父の家である神の世界です。その世界に生きているのに、見えていない人間には不思議に思える。イエスは、どこに行ったとしても、父の家にいる。父の家の中で、守られていることを知っている。だから、謙虚に神に信頼している。イエスが多くの大人たちと聖書の話をしながら、その知恵に驚かされた大人たちのことが記されていますが、それは当然なのです。父の世界を見ているのですから、見えていない大人たちには不思議に思える言葉をイエスは語っていたのです。 

すべてを知っているイエスは、如何なるところであろうとも不安に陥ることなく、揺るがされないいのちを生きておられた。それゆえに、「両親に仕えてお暮らしになった。」とも述べられているのです。両親に仕えるということは、単に親の言うことを聞いたということではなく、両親に服従したということです。服従するということは意志をもって従うということです。ですから、イエスは服従することができたということです。親が怖いから言うことを聞くのではないのです。意味が分からないけど、仕方なく従うのでもありません。親の意志を聞いて、その意志に従うことを自分の意志で決めたということです。イエスは自分自身を親に従わせることができる魂を持っていたのです。 

ヨセフもマリアも神の意志に従うことをイエスに勧めたことでしょう。それは当然のことだとイエスも彼らの意志に従ったのです。これは、マルティン・ルターが言うような信仰者の内なる人間が外なる人間を動かす在り方です。信仰者は、内なる魂が外なる身体を動かして、神の意志に従うようにすることができるのです。それは与えられた信仰の働きを魂が受けているからです。この在り方を自然にイエスは行っておられた。これが神の前に前進しているイエスなのです。 

この一年を振り返るときを迎えました。わたしたちはイエスのように生きたでしょうか。神の前に前進していたでしょうか。人間の前に思い上がるだけではなかったのか。人間を気にするあまり、神の意志を蔑ろにしてはいなかったか。神の意志に従って生きていたのか。神の意志に従順に従う、ということは、与えられている現在を神の意志であると受け入れて生きることです。現在のことを自分が思うように動かそうとして、右往左往していなかったか。「安らかに信頼していることにこそ力がある」という主題聖句を生きることができたのだろうか。今一度、思い返してみましょう。 

一年を終えるに当たって、わたしたちの魂が神に導かれることを受け入れて生きたかどうかを振り返ってみましょう。そして、新しい一年も、神の意志に従って生きることができますように祈り求めましょう。わたしたちがイエスと共に、神の前に、人の前に、前進する魂でありますように。 

みなさんの今がイエスと共に父の家にいる今でありますように。 

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