2024年12月22日(待降節第4主日)
ルカによる福音書1章39節-55節
みなさんは聖霊の働きを受けたことを覚えていますか。洗礼を受けた方は必ず聖霊の働きを受けています。聖霊の働きを受けないでは洗礼に至ることはありません。受洗の意志を表明する際に、あなたは聖霊に促され、導かれているのです。洗礼を受けた後、すっかり忘れて、人間に戻ってしまう人もいます。でも、洗礼は失われません。今一度、自分の洗礼の出来事を思い起こしてみましょう。
聖霊は、イエスの言葉、神の言葉と共に働きます。イエスの言葉をわたしのために語られている言葉として受け入れるように働くのです。洗礼の際も、聖餐の際も、神の言葉と共に働く聖霊の働きをわたしたちは受けています。ただし、別の場合に働くこともあります。わたしが疑いを持っているときです。神の言葉を信じることができないとき、人間の理性で考えているときです。そのようなときにも、聖霊はわたしたちが信じることができるように働いてくださるのです。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」とマリアは歌い始めます。最初の言葉は、マリアの魂が「主を大きくしている」という意味の言葉です。「大きくする」ということが「あがめる」ことです。日本語で「あがめる」という言葉の意味は「この上ないものとして扱う」ことで「尊敬する」ということです。この言葉は、メガリュノーというギリシア語ですが、「大きくする」、「長くする」、「膨らませる」という意味で、あるものを大きく膨らませることを意味しています。では、マリアの中で、今まで神さまは小さかったのでしょうか。どうして、彼女は「主を大きくしている」と言うのでしょうか。
マリアが歌っているのは、もちろん、誉め称えるという意味ですが、誉め称える前は、誉め称える気持ちにはなっていなかったということです。神さまが誉め称えるような出来事をわたしに行ってくださった結果、わたしたちは神さまを誉め称える、と考えます。ということは、マリアにとって、それまでは神さまは誉め称えるようなことをしてくださっていなかったということでしょうか。「大きくする」と言われると、それまでは小さかったのかと思ってしまいますね。
確かに、続く言葉でマリアはこう言っています。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」と。つまり、彼女は身分の低い自分には神さまは目を留めておられないと思っていたのです。これが、彼女が縛られていたこの世の価値観です。この世で価値がないと思われている存在や小さいと言われる存在には、神の恵みが少ないと一般的に思われていた。反対に、この世で価値ある地位に就いて、財産がある人は、神に顧みられていると思われていた。それは当時の価値観だと誰もが思いますが、今日でも同じ価値観が支配しています。そのような価値観の世界に苦しんでいたマリアは、そうではない世界を知ることになった。それゆえに、こんな小さなわたしにも目を留めてくださるという驚きに震えているのです。だからこそ、「わたしの魂は主を大きくしています」と彼女は歌うのです。
主を大きくする魂とは、どのような魂かと言えば、「見てもらえていない」、「知られていない」、そのように今まで思っていた大いなる神が、「見てくださっていた」ことを知った魂です。でも、考えてみてください。マリアは、天使ガブリエルがやって来て、聖霊によって身ごもることを告げたときに、どうして神さまが目を留めてくださったと歌わなかったのでしょうか。わたしの魂は神さまを大きくしていると歌わなかったのでしょうか。
その後、天使が「身ごもっている」と告げた親類のエリサベトのところを訪問した際に、エリサベトの胎の子ヨハネが胎の中で跳びはねた。そのときにも、マリア自身には何も分からなかった。ところが、エリサベトが胎の中のヨハネが跳びはねたことを感じて、マリアを祝福したのです。エリサベトは言葉でマリアを祝福しました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と。この言葉を聞いたとき、マリアは喜びの歌を歌ったのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」だと、どうしてエリサベトは分かったのでしょう。胎のヨハネが跳びはねたことで、そこまで分かったのでしょうか。胎のヨハネが聖霊の働きを受けたとしても、それがマリアに伝わるのはどうしてでしょう。確かに、ヨハネの飛び跳ねる出来事は、聖霊の働きでした。だからこそ、エリサベトは聖霊によって知ったのです、「お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアが天使に答えたことを。このエリサベトの祝福の言葉を通して、マリアにも聖霊が働いたということです。エリサベトの魂とマリアの魂が感応し合った。神の言葉によって、聖霊による交流が生じた。こうして、エリサベトはマリアを祝福し、マリアは主を誉め称えた。「わたしの魂は、主を大きくしています。」と。
マリアの魂が主を大きくしている。マリアの魂を主が満たしている。主なる神でいっぱいになっているマリアの魂。この魂が「大きくしています」と言う主なる神が、今まで小さかったのでしょうか。いえ、マリアの魂を満たしていたことに変わりはないのです。ただ、自分の魂が満たされていることを、この時マリアが知ったのです。マリアの魂がこの世の価値観で満たされていた間も、主なる神はマリアの魂を満たしていたのです。ただ、このときには、この世の価値観である「小さな存在には目もくれない」神という思いから解放されたということです。エリサベトの祝福の言葉によって、マリアは解放された。マリアの魂がこの世の価値観に満たされていたとすれば、その価値観がマリアの魂を押さえつけていたのです。その抑圧から解放され、喜びに満たされたマリア。
エリサベトに祝福の言葉を語らせたのは聖霊です。その聖霊に満たされたマリアは、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と歌っています。この言葉は原文では「可能とするお方が、大いなることたちを、わたしに行ったから」となっています。いくつもの大いなることが自分に行われたとマリアは知ったのです。これまでもたくさんの大いなることが行われていたのに、自分は知らないでいたと告白しているのです。主なる神によって、自らの魂が満たされていることを知ったのです。これがマリアに起こった聖霊の出来事です。
今日洗礼を受ける梅村由佳理さんにも、この出来事が起こったのです。彼女の魂を満たしておられる主なる神が、彼女のうちに働いておられた。神のお働きによって、この教会に導かれ、この9年の間に、主のものとして生きる道を歩むようにされた。何か分からないけれど、何かを求めていた彼女自身が自分自身の魂を満たしておられるお方を知った。このお方に従うことが、わたしには必要なのだと知った。このお方を受け入れて生きるように導かれた。
小さな存在に目を留めるはずはないと思っていたマリアのように、わたしたちもこの世の価値観の中で、見捨てられたように思っていたでしょう。しかし、神はわたしたち一人ひとりをご自分の許へと導いてくださった。イエス・キリストの言葉によって耳を開かれ、目を開かれ、神の働きが自分自身を包んでいること、満たしていることを知った魂は、主を大きくしている魂です。あなたがたは、この世の中で、小さく、価値がないと思っていても、主の目には価高い存在です。自らの小ささを知る魂は、主が満たしておられる魂です。あなたの魂は小さくはないのです。あなたは大いなるお方のお働きを受けている大いなる存在です。詩編139編で詩人はこう歌っています。「わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。」と。この信仰に生かされているのがキリスト者です。あなたは小さくない。あなたは価高い。あなたは主の喜び。あなたは驚くべきもの。この喜びをもたらしてくださるのはイエス・キリスト。家畜小屋に生まれ給う嬰児。
待降節第4主日を迎えたわたしたちは、今日、梅村由佳理姉妹の洗礼という喜びの中に置かれています。この日に巡り合わせてくださった神に感謝しましょう。姉妹と共に、自分に注がれた主の恵みを改めて思い起こしましょう。エリサベトと共に、互いに言い合いましょう、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と。そして、マリアと共に、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と応えましょう。互いに祝福を送り、互いの魂を喜びましょう。
今日、共にいただく聖餐を通して、わたしたちはキリストの体の肢とされます。それぞれの魂を主が満たしてくださいます。主を讃美する魂の交流が与えられます。マリアとエリサベトと共にわたしたちも聖霊に満たされる。わたしたちがクリスマスを喜び迎えることができますように、互いのために祈り続けましょう。クリスマスはすぐそこに来ています。