2025年1月12日(主の洗礼主日)
ルカによる福音書3章15節-22節
今日はイエス・キリストの洗礼を記念する日です。ルカによる福音書だけではなく、マタイ、マルコもイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。どの福音書も、イエスの洗礼の際に天から聖なる霊が降ったと報告しています。聖なる霊とは神の霊のことです。神の霊は何をするのでしょうか。わたしたち人間に対しては、神の意志を伝える働きをします。聖霊は、聖書の言葉と共に働いて、聖書の言葉をわたしに対する神の言葉として聞くようにするのです。では、イエスに降った聖なる霊も同じように働いたのでしょうか。もちろん、神の意志をイエスに伝えたのが聖霊の降臨でした。その神の意志はイエスを職務に任じること。それが、イエスの洗礼なのです。
神の使命を与えられたイエスと同じように、洗礼の際にわたしたちキリスト者に与えられる聖霊の働きは、わたしたちを神の出来事の証人として任じる出来事だと言えます。もちろん、イエスの十字架の救いに与った者として証する使命を与えられるのです。一方で、イエスがわたしたちに与える洗礼を、「聖霊と火の中に沈める」と言われている事柄は何を意味しているのでしょうか。これも使命を与えることなのでしょうか。いえ、わたしたちが与かる救いの出来事が、神の力の中に沈められる出来事であることを意味しています。
聖霊の働きは神の言葉を聞くようにする働きですが、火はどのような働きをするのでしょうか。ルカによる福音書の中で「火」について語られている言葉を見てみますと、それが分かります。12章49節の言葉です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」とイエスはおっしゃっています。その際にイエスが語っておられるのは「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」ということです。イエスは分裂の火を投ずるために来てくださった。それは一人ひとりが自分自身を生きるための火。分裂の火です。わたしたちの洗礼は、聖なる霊と分裂の火の中に沈められることだと言えます。聖なる霊が神の言葉をわたしのための言葉として聞かせることによって、わたしがわたしとして生きるために分裂の火が与えられる。こうして、キリスト者は、それぞれの人生を責任を持って生きる者とされるのです。わたしを造り、わたしに語り掛けてくださる神の前に責任を持って生きる存在、それがキリスト者だということです。
では、聖霊と火の中に沈められたキリスト者はもはや最後審判のとき、火の中に投げ入れられることはないということでしょうか。確かに、火の中に沈められているのですから、最後の火を通って、浄められ、救われたということです。では、救われたわたしたちは、もはや罪を犯すことがないのでしょうか。いえ、マルティン・ルターが言うように、わたしたちは義人にして罪人なのです。肉を持っていますから、罪に流される存在です。しかし、洗礼の恵みに与っているので、義しい神に立ち返ることが可能とされている。それゆえに、わたしたちが罪を犯したと知ったとき、ルターは洗礼を受けていることを思い起こすようにと勧めています。洗礼を受けることは、立ち返るところを与えられていることなのです。わたしたち人間は、原罪の中に浸ったままでは立ち返るところがありません。罪を犯しても、罪を犯したと思わないのが原罪を負っているということです。ところが、洗礼を受けていることを思い起こせとルターが言うように、思い起こす場所が与えられているのです。その場所で、わたしは立ち返ることが可能とされます。
わたしたちは洗礼を受ける前に、「小教理問答書」を学びます。この「小教理問答書」の元になった「大教理問答書」という大部の書物があります。これは牧師たちのために書かれたものです。牧師が信徒を教育するために読むべき本です。その中で、ルターは洗礼について、こう述べています。「さて、この二つのもの、すなわち水と御言とが一つの洗礼をなしているのであるから、 当然またからだと魂との両者が救われ、永遠の生命にあずかるはずである。魂はその信じる御言によって、一方からだは魂と結合して、その捉えることのできる方法で洗礼をとらえるのである。」と。「からだと魂の結合」についてルターは語っています。これは「キリスト者の自由について」の中で、「内なる人間」と「外なる人間」について述べられていることと同じです。
からだは「外なる人間」ですが、このからだが罪を犯す肉です。一方、「内なる人間」は魂のことですが、わたしたちは「外なる人間」のことばかりにこだわっています。自分が認められるかどうかは「外なる人間」の問題です。見栄え、地位、財産など見えるからだが多くの人に認められるような外観であることを求めます。ところが、「内なる人間」についてはあまり考えることがありません。自分にも他人にも見えないからです。わたしたちは「内なる人間」を蔑ろにして、「外なる人間」ばかりに気を遣っています。そして、内と外が分裂するのです。
からだと魂が分裂することで、わたしは本来の自分を見失うことになります。外から始めるとそうなってしまう。ルターは、内から始めて、内なる人間がキリストと一つとされることを求めました。その後で、内なる人間が外なる人間を従わせるようにするのだと勧めています。こうすることで、からだと魂が一つになるのです。ですから、ルターの洗礼の解説は「魂」から始めています。「魂はその信じる御言によって、一方からだは魂と結合して」と述べています。「からだ」は、みことばと結合した「魂」に結びついて、ようやく洗礼を捉えることができるわけです。
わたしたちが受けた洗礼を思い起こすということは、魂の問題です。魂に植え付けられている洗礼のみことばが思い起こされるならば、罪を犯すからだも魂と結合していることを思い起こすのです。こうして、わたしたちがからだと魂としての全体性を回復する。これが、罪を犯したときに、洗礼を思い起こせとルターが言った意味なのです。
わたしたちが受けた洗礼は、わたしの魂と結びついているみことばの働きに与ることです。みことばによる再生、立ち返りが起こるのは、すでにみことばと結びついた魂であるからです。たとえ、からだが罪に誘い、罪を犯させるとしても、魂が救われているならば、再生するのです。そのような意味で、洗礼を受けていることは幸いなことです。わたしたちが受けた洗礼が、聖霊と火に沈められる洗礼であるとは、このような神の出来事なのです。
イエス・キリストはそのために洗礼を受けた。そして、神の大いなる職務を与えられた。イエスが洗礼を受けることがなければ、わたしたちはイエスと共に沈められることはなかった。イエスと共に死ぬこともなかった。そして、イエスと共に起こされることもなかった。イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが、わたしたちの救いなのです。イエスがわたしたちを沈める洗礼の火は十字架の火です。十字架において、イエスはわたしたち人間が消してしまっていた火を、再び起こしたのです。一人ひとりが神に造られた存在として生きる火を起こしたのです。イエスの洗礼を通して、わたしたちが立ち返るべきところが与えられた。イエスの十字架を通して、わたしたちが分裂の火に投げ入れられ、神に造られた一人の人間として起こされる道が開かれた。
イエスの洗礼は、十字架を目指す洗礼。死を目指す洗礼。死を越えて、永遠のいのちを目指す洗礼。このイエスのみことばと結びついたわたしたちの魂が、洗礼によって永遠のいのちを生きることで、わたしのからだも永遠のいのちに生きるのです。その「からだ」とは肉体のことではなく、使徒パウロが言う「霊のからだ」なのです。パウロはこう言っています。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(1コリント15:44)と。自然の命のからだは朽ちても、霊のからだが起こされる。それは洗礼において、すでに与えられているキリストと結びついた魂に与えられているあなたのからだなのです。あなたという存在のからだも魂もイエスの洗礼と結ばれて、救われている。この救いは失われることのない救い。あなたは終わりの日にイエスの前に立つとき、イエスと共に神の栄光を仰ぐのです。憐れみ深い恵みの神が、確かな救いを与えてくださっていることを感謝して、日々歩いて行きましょう。洗礼を受けたあなたのからだと魂には消えることのない救いが刻まれているのです。