2025年1月19日(顕現後第2主日)
ヨハネによる福音書2章1節-11節
弱々しいものは見た目にも頼りないものに見えます。ところが、見た目では分からないことが多いものです。カナという地名はヘブライ語のカーナーの読みをギリシア語に写した言葉でヘブライ語では「葦」という意味です。「弱々しい存在」を表す名前です。このような名を持つガリラヤのカナで行われたイエスの最初のしるしはイエスの指示に従った奉仕者たち以外には誰も知ることのない奇跡でした。それが「最初のしるし」と言われ、さらに「彼の栄光を明らかにした」とも言われています。つまり、イエスの栄光は従う者にしか分からない栄光だということです。これがヨハネ福音書が語るイエスのしるしです。そして、イエスの本来的なしるしである十字架も理解し受け入れる人の少ないしるしだと言えます。イエスに従う者だけが知ることができるしるしが十字架なのです。どうして、そうなのでしょうか。
普通わたしたちの間では、「栄光」と言われると誰もが認める輝かしい業績や成果を意味します。誰もが認めるわけではない「栄光」など栄光ではないと誰もが考えます。秘められた栄光はわたしたちには見えない栄光ですから、「これが栄光だ」と誰もが確認できるものではないのです。この栄光を認めるのはイエスに従う者だけだとすれば、栄光を見たからイエスに従うということではなくなります。では、何のための栄光なのでしょうか。
弱々しい栄光など、誰が求めるでしょう。弱々しい栄光が見えたとしても、誰が従うでしょう。水をワインに変えたとしても、それが救いと何の関係があると言うのでしょうか。救いとは関係ない栄光などあってもなくても良いものではないでしょうか。あってもなくても良いものを誰が栄光だと認めるでしょうか。不思議なことができるから救い主だと誰が思うでしょうか。自分にとって、良いことをしてくれたのであれば、救い主だと思っても良いでしょう。水をワインに変えたところで、誰にとって良いことになるのでしょう。婚礼の客も酔いが回っていますので、良いワインが出てきたところで驚くわけではありません。給仕長にしても、今までこんな良いワインを取っておくとはと言っていますが、誉めているのか、憤慨しているのか分かりません。その行為が素晴らしい行為だとは誰も思っているわけではない。花婿が褒められたとしても、彼は困ってはいない。ワインが足りなくなったことを花婿は知らない。知っているのは給仕長。彼にとっては救いかも知れませんが、彼も奉仕者たちもイエスを信じたとは記されていません。どうして、このようなしるしを行う必要があったのでしょうか。
イエスがカナで行ったしるしは、カナという地名の通り「弱々しい」しるしです。困っていることを助けられたとしても、栄光とまでは言えないように思えるしるしです。その弱々しいしるしが、しるしたちの最初と言われています。ということは、ヨハネ福音書が伝えるしるしは、カナにおけるしるしが示しているようなものだということになります。つまり、弱々しく、誰もが知ることができるわけではないしるし。栄光だと誰もが認めることができるとは言えないようなしるし。それがヨハネ福音書が語るイエスのしるしなのです。十字架という本来的なしるしもまた同じように弱々しいしるしだということです。この最初のしるしがカナの婚宴の奇跡です。
「最初」という言葉は、ヨハネ福音書の初めにある言葉です。「初めに言葉があった」という「初めに」という言葉です。初めですから、第一のものであり、第一こそすべてであるということです。第一のことを指し示すしるしです。第一のしるしに基づいて、この後のしるしが行われるということです。この第一のしるしが示しているのは、イエスのしるしというものは分かる人にしか分からないしるしだということです。イエスの言葉に従うことによって起こるもの、それがヨハネが「しるし」として書き留めている出来事なのです。マリアはおそらくこのことを知っていて、こう言ったのです。「彼があなたがたに何を言っても、あなたがたは行ってください」と。イエスの言葉に従って行うことが、しるしとなる。ということは、しるしは見て信じるものではなく、信じて行う者が見る神の栄光なのです。
それにしても、水をワインに変えることが、どうして神の栄光なのでしょうか。
水はこの世では普通にどこにでもあるものです。もちろん、水は地から湧き出るものであり、湧き出す源泉があってこそ、わたしたちの許にもたらされます。そう考えれば、普通の水さえも、神の栄光であると言えます。その水がワインに変わるということは、何を意味しているのでしょうか。ちょっとした困った状況を救うことになったワインです。大変な困難かあったわけではありません。それでも、祝いの席の喜びを続けるために必要なワインでした。このワインによって、婚礼の客たちは喜びの宴を続けることができたのです。誰も気づかないままに、続けることができた。神の救いは、誰にも気づかれないままに行われ、人々に喜びを与えた。それが神の御業なのです。その御業を見たのは、イエスの言葉に従う者であった奉仕者たち。彼らの姿が信仰を教えているのです。イエスの言葉にただ従うという信仰の姿を彼ら奉仕者たちが教えているのです。彼らはイエスの言葉に仕えることでイエスのしるしを見た。多くの人たちにはしるしは見えなかった。しかし、イエスの言葉に従った者は神の栄光を見ることができる。そのような人たちがキリスト者です。
わたしたちが知らないところで行われているしるしがあります。そのしるしゆえに、わたしたちは生かされている。喜びを与えられている。弱々しいしるしが、実は力強い神の御業であり、神の栄光を物語っている。この神の力を知るのは、信じる者。しるしが信じる者を起こすのではありません。信じる者を作り出すのでもありません。信じる者が神の栄光を見出す。弱々しいところに見出すことができる信仰。この信仰は、父なる神が引き寄せた人たちに与えられているのです。父なる神が引き寄せる働きに素直に従う人たちが見るのが神の栄光です。十字架はそのような栄光なのです。
わたしたちの世界はすべて、父なる神の意志である言葉、ロゴスによって造られたとヨハネ福音書は語っています。その言葉によって造られた自分自身を知る者が、言葉によって生まれた存在です。もちろん、すべての人たちが言葉によって造られています。しかし、その事実を知らずに生きている。神に生かされているのに、自分で生きていると思っている。生かしてくださるお方に栄光を帰すことがない。そのような人間が、神の前に謙虚にひれ伏す礼拝を父なる神は求めていると、ヨハネ福音書4章でサマリアの女にイエスは語っています。霊と真理のうちで、父を礼拝する者を父なる神は求めていると。わたしたちキリスト者は、霊と真理のうちで神を礼拝する者です。場所に縛られることなく、いつどこであろうとも神の前にひれ伏す礼拝を守ることができる。それがキリスト者です。このような者たちのために、与えられるのがしるしなのです。
弱々しく、日常の見えないところで働いているしるし。小さなしるしの中に輝いている神の栄光を認める者は、信じる者だけです。キリスト者にとっては、この世の弱々しい姿の中に、神の栄光が輝いているのです。人々が目に留めることがないようなところに神の栄光を見るとき、神の世界はわたしの周りに確かに存在していると知ることができるのです。このような信仰を与えられた者として生きるとき、わたしたちには落胆することなどないということが分かります。
水をワインに変えることにおいて、イエスが示してくださった神の働きに、わたしたちは包まれています。この世界は、弱々しく見える中に、力強い神が働いている世界です。見えないところで働いておられる神を見る開かれた目を持っている人は、神の働きをいつも受け取ることができる。受けた恵みに応えて、信仰が一人ひとりを動かしていく。このような信仰に生かされる者は、自分の栄光など求めません。自分の名誉など求めません。ただ、隣人が神の栄光を知ることができるように証しするだけです。こうして、わたしたちは神の証し人として用いられていくのです。
今日、共にいただく聖餐のパンとブドウ酒もまた小さなものですが、そのうちに神の栄光が満たされています。受け取るあなたのうちに神の栄光が満ち溢れるのです。イエスの体と血に与り、イエスのいのちがあなたのうちに働くように祈りましょう。あなたは弱々しい者であっても、神さまの働く器として用いていただけるのです。あなたにしか分からない神の栄光を見ることができますように。