2025年1月26日(聖霊降臨後第3主日)
ルカによる福音書4章14節-21節
「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」と言われています。それは「発見した」ということです。今日の日課にありますイザヤの言葉が書かれている場所をイエスは発見したのです。これは神の必然でした。イザヤの言葉の場所を開かせた神がご自分に語り掛けておられると、イエスは受け取った。イエスは、この後、イザヤの言葉の通りに生きることになりました。その生き方は、「貧しい人に福音を告げ知らせる」生き方でした。貧しい人への福音とは、捕らわれている人の解放、視力の回復、そして自由です。
わたしたちは何かに捕らわれているものです。こうでなければならないという思いは、なかなか消えません。できないときはできないのに、どうしてもそうしたいと思うのです。その捕らわれから解放されることで何が起こるのでしょう。自由になるのです。そして、自分自身が本来生きるべき道を発見するでしょう。
視力の回復もそうです。あるのに見えないようになっている人間が見えるようになることが、視力の回復です。見えるようになったとき、見えるようになったものはそこに突然現れたように思えるでしょう。それは発見したように思える出来事です。これは、イエスがイザヤの言葉を発見したことと通じています。つまり、イザヤの言葉は以前からそこにあったのです。そのイザヤの言葉が見えていなかった。でも、このとき見えるようになった自分の経験を通して、人々が見えるようにされるために、神さまがわたしを任命したのだと受け取った。神は、イエスを任命し、福音で包む働きを委ねた。この言葉の場所を発見させて、任命した。この特別な任命は、いつもの事柄の中にありました。いつも行っていたことの中で、イエスは任命された。いつも行っていたことが、特別の扉を開いた。ということは、日常の中に、神の任命はあったのに、発見しなければ見えなかったということです。
イエスが、生まれ故郷でいつも行っていたことの中で、神による任命が行われたということは、任命はいつもあったのです。しかし、このときイエスは初めて発見して受け取ったということです。発見するということは、ずっとそこにあったのに見えなかっただけだということです。確かに、イエスが読んだ聖書はイエスから500年前に書かれたものです。毎年、ユダヤ教の会堂で朗読されていた。もしかしたら、イエスは以前にも聞いたこと、読んだことがあったでしょう。ところが、今日、イエスは発見した。ある人が言ったことですが、「探すのを止めたとき、発見するものである」ということがあるものです。自分の状況や心持ちと一致する言葉を探しているときには、発見しないのです。むしろ、何でもないときに発見するのです。いつもの事柄の中で発見するのです。
何度も見ていたのに、見えなかったとすれば、見ていなかったことになります。わたしたちが発見しようと躍起になっているときには見えない。だとすれば、何でもないとき、何も考えていないとき、何も探していないときに、神の働きを受け取るということです。そうです。わたしたち人間が力を尽くしているときには、神がそこに置いているのに見出すことができないのです。
では、申命記6章5節にある「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉は間違っているのでしょうか。いえ、この言葉は、あなたの心も魂も力も、そのすべてを主を愛することに使いなさいという意味です。主を愛することに自分のすべてを使う人は、自分の力を自分のために使わないので、力を捨てているのです。そのとき、神によって発見させられるのです。だからこそ、イエスがここで発見したのは、いつも通りに礼拝に心を向けて、主を愛していたからなのです。いつも通りの礼拝は何度も経験しているイエスが、このときに発見したということは、発見のときも神が与えるということです。
わたしたちは、自分に都合の良い聖書の箇所を探します。荒野の誘惑で神に背くように悪魔が神の言葉を使ったように、わたしたちも自分の都合に合うような言葉を探します。自分の思惑に合うような聖書の箇所を探します。そのようなときには、見つからないものです、本当の神の言葉は。そのようなときに、見つけるのは自分の思いだけです。むしろ、何も目的を持っていないときに見つけるのです。それは、わたしたちが目的や目標をもって取り組むことは、自分のために力を使うことだからです。自分のために力を使うのではなく、主のために力を使う。主を愛することだけに心を向ける。そのとき、わたしたちは思惑もなく、計画もなく、自分の都合も捨てて、主に従っています。だから、そのときには、神の任命を受け取ることもできます。何も思惑がない人こそ、神に用いられる人です。イエスはそのような自分を発見した。イザヤの言葉の中に発見した。発見した自分自身が、神に任命されていることを知った。それゆえに、イエスは神の任命に従って、生きたのです。
会堂に集まった人たちにイエスが言う言葉があります。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。原文では「あなたがたの耳の中で満たされてしまっている」です。つまり、聖書の言葉はあなたがたの耳に満たされてしまっている言葉だから、いつでも受け取ることができるという意味でしょう。そのことに気づきなさいと、イエスはおっしゃっているのです。いつも聞いている言葉、いつも読んでいる聖書の言葉がある。しかし、発見することなく、聞き流し、見逃している。それが会堂に集まった人たちの現実なのです。イエスはこの現実を告げたのです。わたしたちの耳にも満たされてしまっている聖書の言葉があります。それなのに、聞いていない。満たされてしまっている言葉を受け入れるか受け入れないか。それはあなたが自らの貧しさ、罪深さを受け入れているかどうかなのです。受け入れているとき、あなたは福音に包まれています。
貧しい人は、自分の思うようにはならない現実を知っています。しかし、その方が真実を求めることになります。自分の思うようになると思っている人間はいつも人を操ることができると思っています。まるで、イエスを誘惑した悪魔のように。むしろ、貧しさにあってこそ、わたしたちは何もできない人間として生きるのです。ただ、与えられるものを素直に受け入れる人間として。
あなたを包んでおられるお方は真実な方。あなたを愛するお方は、あなたの耳にいつもみことばを満たしてしまっておられる。ただ、わたしたちが神の言葉に耳を開かれるかどうか、神の言葉を発見するかどうかは、神の時にかかっています。わたしたち人間にはどうにもしようのないことがあります。わたしが何もできないことを認め、受け入れるとき、神の言葉は発見されるのです。そのとき、あなたが発見するのは神の言葉によって新しく創られたあなた自身です。捕らわれていたところから解放されたあなたは、捕らわれていたものを脱ぎ捨てて、新たに生きることができるのです。そのように生きるあなたは、神によって発見されたあなたなのです。
このお方を愛するあなたは福音に包まれて、真実を生きる者とされます。神が置いたものを見出す人は、神のお働きに用いられるのです。あなたを置いた神は、あなたを用いるお方。あなたの耳の中で満たされてしまっているみことばは、あなたを神のご意志に従う者としてくださる力ある言葉なのです。耳に満たされている言葉を聞くことができますように、共に祈りましょう。