「受け入れられない者」

2025年2⽉2⽇(顕現後第4主⽇聖餐礼拝)
ルカによる福⾳書4章21節-30節

みなさんは「驚く」ということが何を意味していると思いますか。思ってもみないことが起こったときに、わたしたちは驚くものです。「すごーい」と⾔って、「素晴らしい」と賞賛することがあります。もちろん、思っても⾒ないことというのは、都合の悪いこともあるわけで、その場合も驚きます。「どうして、こうなるの」と、期待を裏切られたという
驚きもあります。そして、怒りや反発が⽣まれます。ナザレの⼈たちは、驚いた後にこう⾔っています。「この⼈はヨセフの⼦ではないか。」と。つまり、⾃分たちが知っているヨセフの息⼦が神の⾔葉、恵みの⾔葉を語るとはどういうことだと⾔っているわけです。そのような故郷の⼈たちの反応に対して、預言者は、⾃分の故郷では歓迎されないものだ。」とイエスは述べています。

故郷の⼈たちがイエスを受け⼊れないということは、ヨセフの⼦だから、ということのようですが、実はイエスの⾔葉が気に⼊らないからです。ヨセフの息⼦でしかないイエスが何を⾔うかと怒っているとも⾔えます。ヨセフの息⼦で学歴がないとか、家具造りだとか、貧しいとかいうことで受け⼊れられないということのように思えます。しかし、実は
イエスが本当のことを語っているからです。それで、受け⼊れない理由を、別の理由にしているのです。⾃分たちの本⼼を隠すために。また、⾃分⾃⾝も聞かなくて良いようにするために。

預⾔者は本当のことを告げるから嫌われる。イザヤも、エレミヤも迫害を受けました。迫害を受けることが、預⾔者が預⾔者であることを証しするとも⾔えます。⼈々に受け⼊れられる預⾔者は、受け⼊れられるようなことを語るから受け⼊れられる。気に⼊られるようなことを語れば、⼈々は喜んで迎えてくれる。⾃分たちを祝福する⾔葉が神の⾔葉だと
⼈々は思いたい。⾃分たちに悔い改めを求める⾔葉など聞きたくない。しかし、真実を求めている⼈たちには、悔い改めの⾔葉は救いの⾔葉となります。なぜなら、⾃分を振り返り、⾃分を取り戻し、⾃分を⽣きることができる⼒をいただけるからです。そのように神の⾔葉を聞くとき、わたしたちは福⾳に包まれているのです。

ところが、ナザレの⼈たちは、⾃分たちが聞きたい⾔葉を語る⼈でなければ、聞かないのです。「ヨセフの息⼦の⾔うことなど聞いていられるか」と思っているようですが、「こいつが俺たちを批判するから聞かない」というだけでしょう。聞きたくない⾔葉だというのが本⾳でしょう。これが⼈間的な思いに動かされている⼈たちです。それなのに、「イエスは⼈々の間を通り抜けて⽴ち去られた。」と最後に記されています。誰も、イエスを崖から突き落とす責任までは負いたくなかったということです。責任を負うつもりがないということが、神の悔い改めの⾔葉を拒否する⼈たちの在り⽅なのです。⼀⼈ひとりが神の前に⽴つことがキリスト者として⽣きることです。ところが、わたしたちは「みんな」と同じであることで、「みんな」の中にいることができるというところに⽴とうとするのです。ナザレの⼈たちの中にも、イエスがおっしゃっていることは義しいと思った⼈もいたことでしょう。しかし、「みんな」がイエスを追い出し、崖から突き落とそうとする中で、彼らはそれを⽌めることはできませんでした。⾃分も同じように突き落とされたくないからです。結局、「みんな」の中にいることを選択したのです。これが原罪を負っている⼈間の在り⽅です。神さまが造られた⾃分を⽣きるのではなく、「みんな」から排除されない⾃分を⽣きようとする。義しいことを選択して⽣きるのではなく、「みんな」と同じことが義しいとする。「『みんな』が義しいと⾔っていることが本当に義しいのか」、と考えることはない。

20 世紀初頭、第⼀次世界⼤戦の最中に⽣きたアランという哲学者がいました。彼はこんなことを⾔っています。「考へるとは、否(ノン)と⾔ふことだ。」と。この⼈はフランス⼈ですから、ノンと⾔うのですが、英語だとノーです。⽇本語だと否です。考える⼈というのは、みんなが「そうだ。そうだ。」と⾔う事柄について、どうして「そう」なのかを考えて、「そうだ」と⾔うことができない⾃分を認め、「ノン」、「ノー」「否」と⾔うのです。考えない⼈は、みんなに同調して「そうだ」と⾔う。そう⾔っておけば、「みんな」の中から追い出されることはないからです。これが⼈間の意識の問題であることを、デリダという哲学者はこのアランの⾔葉をもとに考えました。

考えるということは、何かに対して「意識」を持つということだと、デリダは⾔っています。確かに、わたしたちが「いや、そうではないだろう」と⾔うとき、みんなが「そうだ」と⾔っている事柄に意識を向けて、良く考えて「そうではない」と⾔うのです。もちろん、この「そうではない」という⾔葉が否定しているのは、⾃分⾃⾝のうちにある「みんなに同調していればそれで良い」と思う⾃分に対してです。つまり、⾃分を否定するということ、それが意識をもって、物事を考えることだというわけです。このように⾒てみますと、イエスがおっしゃった⾔葉、「⾃分を捨て、⾃分の⼗字架を背負って、わたしに従いなさい」という⾔葉は、⾃分⾃⾝への「そうではない」、つまりノンを表していると⾔えます。

⼀⽅で、わたしたち⼈間は、⾃分を肯定してほしいと思います。⾃分を肯定してもらうためには、「みんな」に同調しなければならないと考えてしまいます。しかし、「ノン」という⼈は、⾃分が「これはおかしい」、「ノンだ」と思う⾃分の⼼を肯定して「ノン」と⾔うのです。ナザレの⼈たちの中には同調圧⼒に押さえつけられた⼈たちもいたのかも知れま
せん。でも、結局⾃分の⼼の声を肯定するのではなく、他者に肯定してもらうことを選択したのです。

ところが、イエスはそのようなナザレの⼈たちの真ん中を通って、出て⾏かれたと記されています。この⾔葉が語っているのは、この世の「みんな」という塊、これをイエスは分断したということです。イエスが真ん中を通ることによって、「みんな」という塊が⼆つに分けられたのです。それなのに、イエスが出て⾏くにまかせた。つまり、誰もイエスに
⼿をかけて、崖から突き落とす責任は負わなかったのです。このような⼈間たちが「みんな」なのです。「みんな」の中に隠れて⽣きる。⾃分を守るために、名前を特定されないように隠れる。このような在り⽅が原罪から来ていることは明らかです。

ナザレにおいて、イエスがおっしゃったことは、聖書が語っていることです。イエスが勝⼿に聖書を書き換えたわけではありません。それなのに、⼈々はイエスに対して憤慨しているのです。彼らは、神の⾔葉を聞いてはいないのです。⾃分に都合の悪い神の⾔葉はわたしを批判していると思うのです。わたしが⽣きるべき道を語っておられるのが神の⾔葉です。わたしを愛している⾔葉です。それなのに、わたしたちは批判としてしか聞かない。わたしたちもまた、ナザレの⼈たちと同じなのです。そのようなわたしたち「みんな」の真ん中を通って、イエスは出て⾏かれた。

イエスがわたしたちの真ん中を通って出て⾏くことによって、わたしたちは分けられた存在になる。これはとても重要なことです。イエスがわたしたちの真ん中を通って出て⾏かれたことがわたしたちの救いとなるのです。イエスが出て⾏ったことを義しく受け取るならば、救いに与るのです。それが、わたしたちが神の⾔葉に真摯に⽿を傾けて⽣きることです。そのとき、わたしたちは神の世界に⽣きることができます。

今年の主題聖句が語っている姿、神の国と神の義を探し求める姿は、わたしたちの世界を包んでいる神さまの世界を信頼している姿です。出て⾏かれたイエスによって造り出された分断を⽣きる者は、「みんな」に受け⼊れられなくともイエスに従って義しい道を歩もうとします。わたしたちは、このお⽅に従う者として、わたしたちの⽣活の中に、神の国と神の義を探しながら、キリストに従って「みんな」の真ん中を通って出て⾏きましょう、それぞれに与えられた⾃分の道を⽣きるために。そして、キリスト者として⽣きるために。

Comments are closed.