「罪人の未来」

2025年2月9日(顕現後第5主日)
ルカによる福音書51-12

わたしたち人間は、過去から現在、未来へと時間を生きています。わたしが生きているのは現在です。過去は過ぎ去った時間で、未来というものは未だ来ていない時間です。未だ来ていないことについては、期待と不安が入り交じるものです。良くなるという期待と悪くなるという不安は未来のものです。現在が悪い状態だと思う人は、未来に期待するものですが、それでも現在の自分が置かれている状況から考えると期待できないと不安になることもあります。現在が良い状態だと、この状態を保っていれば、良いと考えるものです。現在満足している人は現状維持を求め、現在に不満がある人、絶望している人は、未来など期待しても上手く行くはずがないと思うでしょう。でも、期待もある。いずれにしても、未来は未だ来ていないのに、わたしたちは自分の現在から考えてしまうのです。現在良い状態にある人は良い状態が続くと思い、悪い状態にある人は良くなるはずはないと思う。それでも、未来に期待する気持ちもある。未来は決まっていないとも思う気持ちがどこかにあるからです。

では、未来はどのようにして来たるのでしょうか。もちろん、現在の状態から来たるのです。その現在の状態は、わたしの周り、つまり人間関係などの社会的環境の現在なのか、わたし個人の現在なのか。または、別の現在なのか。

今日の福音書で、ペトロに向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスが言いますが、その言葉に対して、現在まで漁をしてきた海の状態から考えると魚が獲れるはずはないとペトロは一旦イエスの言葉に反対します。ところが、続いてこう言うのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。ペトロは現在の自分たちの周りの状況、魚が獲れなかったという状況から考えて、獲れるはずはないと思ったのです。しかし、期待する気持ちもあった。ペトロが置かれている場の現在が変わることを、イエスの言葉に期待したのです、「もしかしたら」と。そして、そのようになった。この現在を見て、ペトロはイエスに言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。これはペトロ本人の現実を認識した言葉です。自分は罪人であるという認識です。それは、彼の現在における社会的状況も個人的状況も、変えるのは自分ではないという認識でしょう。なぜなら、彼は自分の現在は変わらないと思っていたのですから。ところが、イエスの言葉によって、網を投げてみると、大漁になった。彼は自分の未来を決めるのは自分ではないことを知ったと言えます。

このような状態になったペトロを、イエスは弟子として召し出しました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。イエスは「恐れるな」と言っています。ペトロは何を恐れていたのか。罪人であることを認めた自分が裁かれることを恐れていたのでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。しかし、その裁きは、すでに下
されています。皆の前で面目を無くしてしまった熟練の漁師が何者でもないことを認めざるを得なかったそのときに下されています。ペトロが罪人であることを認めたとき、裁きは下されたのです。

裁かれた者は、すべてを神に委ねています。それゆえに、イエスはペトロを召したのです。何も持っていない、ただの人としてペトロを召したのです。それゆえに、ペトロたちは「すべてを捨ててイエスに従った。」と述べられています。何者かであることを捨てざるを得ない者とされた人をイエスは召し出したのです。イエスが「恐れることはない」とおっしゃったのはすべてを捨てても大丈夫だという意味でしょう。だからこそ、ペトロたちは、過去も現在も未来も神の御手に委ねた。これが召された者の未来。罪人の未来です。

わたしたちは自分の未来を決めることはできません。にも関わらず、現状維持を求める。自分の未来は開かれている。にも関わらず、絶望に陥る。未来を決めるのは神。いえ、現在も過去も決めておられるのは神。そのお方の御手に委ねるとき、わたしの過去も現在も未来もすべては神のご意志に従ってなってきたし、なっていくと信じることができる。それがすべてを捨てるということです。

「捨てる」とわたしたちは言いますが、実はもともとわたしのものではなかったのです。ここで言われている「捨てる」という言葉は「手放す」ことです。握っていると思っていたものを手から放すこと。握りしめていた手を開くこと。それは、本当に握っておられるお方に委ねることです。そのお方がイエスであることを知って、ペトロたちはイエスに従ったのです。

未だ来ていない未来に向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスはおっしゃった。漁をすると言っても、漁師は網を降ろすだけです。「降ろす」という言葉はもともと「ゆるめる」という意味です。網を握る手をゆるめると、網は下に降りていくので、「降ろす」と言われるのです。そうであれば、漁をするということは、ペトロたちがしっかり握りしめていた手をゆるめるだけなのです。もちろん網を投げるのですが、投げるとき手を緩めないならば、投げることはできません。網は漁師の魂でしょう。漁師の魂としての漁の道具をしっかり握ることで、彼らは漁師としての自分を保っていたのです。その手をゆるめることで漁ができるとすれば、実は彼らは漁において、自分の手を開いていたわけです。網を手放してこそ漁ができていたのです。そのような漁は、神にすべてを委ねることで可能となっていたとも言えます。それなのに、自分は自分で漁をしていると思い込んでいたと、ペトロは気づいたのでしょう。そして、罪人であることをイエスに告白した。そのとき、自分自身を握っていた手をゆるめたのです。そして、イエスにすべてを委ねた。自分自身をイエスの手に渡したのです。

イエスは、ペトロたちが「人間を獲る漁師になる」とおっしゃるのですが、それは彼らの未来です。イエスにすべてを委ねた者の未来を決めるのはイエスだということです。「人間の漁師として存在するであろう」とイエスが言う未来です。人間を獲る漁師とは、人間の上に網をゆるめることで行われる働きを担う存在だということです。何の網をゆるめるのかと言えば、福音の網、みことばの網でしょう。彼らが人間を説得して、信じる者にするのではありません。ただ、みことばの網をゆるめて、降ろすだけです。みことばの網にかかる人間をキリストの教会という舟に引き上げることになる。それが、ペトロたちが行うことです。

イエスによって、漁師として用いていただくこと。しかも、自分は手をゆるめるだけ。みことばが人間を捉えるに任せること。それが、弟子たちの召しでした。この召しは、自分自身をイエスに差し出すことでもありました。わたしは、イエスが用いる存在だと差し出すことでした。そして、イエスが降ろすようにおっしゃるところで降ろすのです。それゆえに、「人間を獲る」のはペトロではなくイエスなのです。イエスがペトロを用いて、人間を獲るのです。そのようなペトロは、どこであろうとイエスの手に握られている。神の手に握られている。神の御手、イエスの御手がペトロを用いて、人々を捉える。みことばが人々を捉える。この神の働きのために用いられるのが、弟子たちです。

自分が自分の周りを支配して、上手く動かして、自分の思うような世界を作ろうとするのがわたしたち人間の原罪です。自分が神になろうとするのがわたしたちのうちに働く原罪の働きです。この働きは、自分の手にすべてを握ろうとする心に宿っています。自分の手をゆるめなければ漁ができなかったのに、気づかない。自分の手を開かなければ、新しい世界に入ることができなかったのに、気づかない。このことに気づくことが罪人だと認めることなのです。そうは言っても、誰でも気づくのかと言えば、そうではありません。やはり、気づく人が気づくだけです。網にかかる人も、かかるべき人がかかるのです。イエスがたとえでおっしゃるように「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。聞く耳がなければ聞かないのです。

この耳を自分で鍛えることができるのでしょうか。自分の耳を聞くようにすることができるのでしょうか。自分の手を開くこともできなかったのに、耳を開くことができるでしょうか。これさえも、わたしの手に余ること。わたしがわたしを支配することはできないのです。自分をどうにもしようがないのが人間です。この人間が自分をどうにかできるはずなどない。そう考えてみれば、自分の握っていた手をゆるめて、開くことさえも、わたしにはできないのです。開くと不安になるからです。ゆるめると誰かに取られると思うからです。自分のものにしておきたいと思うからです。そのような思いから解かれるとすれば、解くお方がわたしに絶望を与えてくださらなければ、わたしは解かれないのです。

自分に絶望すること。自分の力の無さに沈むこと。このような状態にされることは、実は神の働きです。わたしたちが自分の力の無さに沈むときも、神さまがあなたを握っておられるのです。神の御手があなたをしっかりつかんでいることに気づきなさいと神はあなたの闇に入って来てくださる。あなたが絶望しても、神さまがしっかり握っていてくださる。見捨てられることのない幸いをあなたに与えようと握っていてくださる。過去も現在も未来も神さまの御手の中にある。罪人の未来は、神の御手にある。あなたの未来を神に委ねるならば、何も心配することはないのです。神のご意志がなっていく未来、神さまの義しいご支配が行き渡る神の国を信じて、前進していきましょう。

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