2025年2月16日(顕現後第6主日)
ルカによる福音書6章第17節-26節
今日、イエスは幸いと不幸の話をしていますが、最後に預言者と偽預言者の話でまとめられています。偽物というのは、本物がなければ偽物にはなりません。偽物はそれだけで存在することはできません。本物が存在していなければ、偽物は生まれないのです。偽物は、本物を真似る。本物であるかのように見せて、本物が獲得するものを手に入れる。そうして、自分が本物に成り代わると、その人が本物だと周りの人たちは思い込みます。このように、偽物は本物を陥れて、本物になるのです。これがこの世の在り方です。そうして、本物は偽物にされ、排除される。今日、イエスがおっしゃっているのは、このようなことです。
ところで、本物とはどのようなものでしょうか。本物とは偽物が真似をするようなものですから、それまで存在しなかったもの、それまで誰も考えたことのないものだと言えます。つまり、最初のものが本物です。二番目のものは偽物です。では、わたしたちが作っているものは偽物なのでしょうか。ほとんど偽物です。皆、誰かの真似をしています。
皆、何かを手本にして作っています。「こうしたら上手く行きます」、「こうすればお金儲けできます」などと勧誘する人がいますが、そのような人が持っている手本や方法は本物のように思えます。ところが、誰かの真似をしているだけです。わたしたち一般人が作るものなど、すべて真似でしかありません。わたしが最初に作ったものなどありません。どこか似ているものしか作ることができないのです。どうしてかというと、わたしたち一般人は皆と同じように生きたいと思い、皆と同じように生きることが最善の道だと思っているからです。発見したり、発明したりする人は、皆と同じことはしません。皆と同じではないので、「おかしな人」と思われます。そのような人たちが、実はこの世界を新しくする人たちなのに、理解されずに捨てられることが多いのです。
今日イエスが語っておられる言葉を聞くと、このような捨てられている人たちが出てきます。「貧しい人」、「空腹の人」、「嘆いている人」など、皆捨てられている人たちです。反対の人たちも出てきます。「富んでいる人」、「満腹の人」、「笑っている人」など、皆うらやましいと誰もが思うような人たちです。この二つの人たちが比べられているのかと言えば、そうではありません。本物の預言者と偽預言者のことをイエスは語っていますので、幸いなのは本物、不幸なのは偽物。本物は貧しく、空腹で、嘆いている人たち。偽物は富んで、満腹で、笑っている人たちだと思えてきます。しかし、そうなのかを良く考えてみなければなりません。
イエスがおっしゃっているのは、本物の預言者は迫害され、馬鹿にされ、捨てられる。しかし、偽物の預言者は喜ばれ、誉められ、受け入れられる。これがこの世だというわけです。この世は、偽物と本物を反対に見ているということです。なぜなら、偽物はこの世が気に入る言葉を語るから、気に入られ、受け入れられる。本物は、この世が気に入らない言葉を語り、嫌われ、排除される。この世の評価というものは概ねこのようです。
では、嫌われる人は本物で、好かれる人は偽物だと思いますか。それも違います。嫌われることと好かれることで本物か偽物かが分かれるわけではありません。最初のものか、二番目のものかで分かれるのです。イエスは最初の人、第一の人です。だから、本物です。イエスによって幸いだと言われている人たちも、真似られて、奪われた人たちなのでしょうか。もちろん、彼らも最初の人ではないのです。ただ、イエスに従うということにおいて最初の人なのです。最初の人であるイエスに引き寄せられている人は、最初の人イエスと一つだからです。
そのような人は、まっすぐな人です。最初の人イエスと一つとなっている時点で、まっすぐです。イエスさまに従おうとしている時点でまっすぐです。誰かが従っているから従うのではないからです。誰かの真似をして従うわけではないからです。脇見をせずに、ひとりの人間として、イエスに従うから、最初の人です。
預言者たちも同じように、ただひとり神に従い、神の言葉を聞き、語ったのです。それで、嫌われた。誰かに気に入られるように語ることができなかった。本物の預言者たちは、自分を気に入ってもらおうともしていません。嫌われても、神の言葉をまっすぐに語ったのです。いえ、語らなかったら神さまに嘘をつくことになると、まっすぐに語ったのです。神さまの言葉を気に入られるように作り替えてはならないと、正直に語ったのです。それで嫌われた。仕方ないですね。
貧しい人、空腹の人、嘆いている人は、この世で上手く立ち回ることができなかった人たちです。だから、貧しくて食べるものがなくて、泣いている。まっすぐであることで、そのような状態になったとすれば、この世に気に入られるように生きたら良いのにと思います。しかし、それができない人たちなのです。神さまにも自分にも嘘をつけない。だから、貧しくても仕方ないと受け入れる。空腹でも仕方ないと受け入れる。泣いているしかないと受け入れる。そのような人たちが幸いであるということは、まっすぐだから幸いなのです。神の国は、彼らのものなのです。神の国はまっすぐな人が入る国だからです。
だとすると、イエスに従う人たちはこの世では受け入れられず、捨てられて、滅びていくということになります。ところが、イエスは彼らに対して、こう言うのです。「あなたがたは満たされる。」、「あなたがたは笑うようになる。」、「天には大きな報いがある。」と。これは、終末が来て、この世が終わったときに、そうなるということでしょうか。確かに、未来のことですが、終末というわけでもなく、いずれそうなる日が来るとイエスはおっしゃっているのです。ということは、まっすぐに生きなさいということです。あなたがたが神さまにまっすぐに向かって生きていることは、神さまがご存じです。その神さまがいずれ、あなたがたを満たし、笑わせ、報いを与える日が来るのだから、まっすぐに生きていなさいと、イエスはおっしゃっているのです。
でも、わたしたちは「いつまでですか」と聞きたくなります。その日が分かっていれば、耐えられると思うからです。しかし、それではまっすぐではありません。何か報いを求めて、この世が認めることを求めて、生きていくことは神さまにまっすぐに生きていることではないからです。本物のまっすぐな人は、いつまでとは決まっていなくても、いつまでもまっすぐに生きるのです。報われなくてもまっすぐなのです。しかし、報いは確かにあるのです。天にあるのです。これを信じているからこそ、いつまで耐え続ければ良いのかと問うことなく、静かに自分を生きていく。自分らしく生きていくのです。このような人が本物です。
イエスは本物です。死に至るまで、神さまに従ったから本物です。死んで花実が咲くものかと、誰もが思うものです。しかし、死んで花実が咲いたのがイエスです。もちろん、死んで花実が咲くから死んだのではありません。ただ、神さまのお心が実現するように願って生きたのです。このお方が、わたしたちの主。わたしたちが信じて従っているお方です。
罵られ、迫害されても、十字架に架けられても、ただ神のご意志に従い通したお方イエスこそ、神にまっすぐに生きた本物の人間。神にまっすぐに生きて、人間を救った本物の神。真似しかできない人間を、神にまっすぐに生きるようにしてくださるのは、本物のイエス。十字架の死に至るまで、人間が生きることの本当の姿を示してくださったのがイエス。わたしたちキリスト者は、このお方が生きたように生きることへと召されています。招いてくださったお方が、あなたのうちに起こしてくださった思いに素直に従ったあなたは、本物のあなたを生きるのです。そのために、イエスは自分自身を投げ出してくださった。まっすぐに生きる人たちの報いとして、ご自分の体と血を与えてくださる。イエスのように生きる力を与えてくださる。
今日共にいただく聖餐を通して、あなたのうちに入ってくださるキリストの力が、あなたを支えてくださいます。迫害され、嫌われたとしても、まっすぐに神に向かって歩む力を与えてくださいます。感謝して受け取りましょう。主の力を。主の恵みを。本物の主を。