2025年2月23日(顕現後第7主日)
ルカによる福音書6章27節-38節
量りというものは、基準の重さがあります。今日の聖書でイエスがおっしゃる「量り」の基準は「わたしが行ったこと」です。それが基準となって、わたしに「量り返される」と言われています。わたしがしたことがわたしに返ってくる。それでイエスはこう言うのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」と。
でも、34節ではこうもおっしゃっています。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」と。この言葉は、自分に返ってくるものは当てにしてはならないということです。そうすると、「人にしてもらいたいと思うこと」は、返ってくることを当てにしないで行いなさいということになります。
神さまの世界は、与えて、返される世界です。エネルギー保存の法則のように、わたしたち人間の行為も神さまの許に保存されていて、わたしに返ってくるようになっているのです。しかし、わたしたちが最初に何かを行うのかと言えば、最初にわたしを動かす刺激があって、わたしたちは動くのです。何も刺激がないところでは、わたしたちは動かないでしょう。その最初の刺激を与えるのは神さまです。
17世紀の人で、スピノザというユダヤ人の神学者であり、哲学者でもあった人がいます。彼は、神さまが何かを起こすから、わたしたちは反応して、何かをすると考えました。人間から始まるものは何もないと考えました。確かに、わたしたちは神の言葉を聞いて、神の言葉に従うか、反発するかのどちらかに動くわけです。
では、そのように神の言葉を聞いて動くわたしが、良いことばかりしていると良いことばかりが返ってくるのでしょうか。そのような功利主義のような考え方をする人は、返ってくることを当てにしているので、当てにされることしか返ってこないでしょう。むしろ、返してもらうことを当てにして貸すのではないという言葉のように、見返りを求めずに他人に対して行うことが求められているのです。わたしたち人間は、他人に対して行っているように見せて、自分自身でも人のために行っていると思っているかも知れません。しかし、実は自分のために行っているのだとイエスはおっしゃっているのです。
わたしたち人間というものは、人のために行っているように見せてはいても、結局わたしのために行っている。見返りを求めることはどうしても心に浮かんできます。「あれだけやってあげたのに」と思ったり、「わたしのおかげでできたのに」と考えたりして、自分がしてあげたと思っていることを数え上げているのがわたしたちでしょう。それが「返してもらうことを当てにしている」姿だとイエスはおっしゃるのです。
わたしたちはどこまでも自分のために貯め込んでいます。自分が利益を得るために働いている。確かに、わたしたちは自分の生活がありますから、そのためには貯めておかなければならないと思います。貯めることで将来への安心を買うことにもなります。これが悪いことだとは言えません。ところが、わたしたちには貪欲という原罪が働いてしまうものです。貪欲というのは、必要以上に貯め込むことです。必要以上に求めることです。そのようになったとき、わたしたちは欲に支配されています。この欲から解放されるためには、見返りを求めないことだと、イエスはおっしゃるのです。
最初は、純粋な気持ちで他人を助けたとしても、後で思い返して、「あんなことをしてあげていたなあ」、「こんなこともしてあげていた」と考えてしまいます。そのように考えてしまうことで貪欲に火がついてしまう。貪欲に火をつけないためには、忘れることが必要です。マタイ福音書6章3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」とイエスがおっしゃっていますが、それは「忘れなさい」とおっしゃっているのです。
わたしたちは忘れないものです。良いことをしたときに忘れないだけではなく、悪いことをされたときもわたしたちは忘れません。自分が悪いことをしたときは忘れます。自分に良いことをしてもらったときも忘れます。わたしたちが忘れるのは、自分にとって損になるときです。自分が負債を負うときには忘れ、相手に負債を負わせるときには忘れないということです。これがわたしたちのうちに働いている貪欲という原罪の働き、自分に貯め込む働きなのです。この貪欲が働かないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。
「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とイエスはおっしゃっています。ところが、この言葉を、自分が人から情け深く扱われたいと思うならば、人にも同じようにしなさいということのように、わたしたちは考えてしまいます。そうすると、見返りのために行うことになってしまいます。
わたしたちが、情け深く扱われたいという気持ちを持つときというのは、自分が批判され、罵られるときでしょう。そのような人が恩を知らない人だと、わたしが思うとすれば、自分を批判する人に対して情け深く関わりなさいということになります。「これはとても難しい」と、わたしたちは思います。相手がわたしを批判するのだから、対抗して相手を批判してやろうとなるのです。こうして、批判の応酬に陥って行きます。SNSなどでは、そのようなことが毎日行われています。
だからこそ、主の祈りにおいても、こう祈りなさいと言われています。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と。また「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」と祈りなさいとも言われています。「悪からお救いください」というのは、わたしが悪を行うように誘惑されても、誘惑されないで、あなたの義しさを信じて、立ち続けることができますように「お救いください」という意味でしょう。それはまた、悪に悪を返さないということでもあります。そして、「敵を愛しなさい」とおっしゃるイエスの言葉にもつながっているのです。
敵は敵です。敵を味方にしなさいとはイエスはおっしゃっていません。敵が敵のままであろうとも、必要な時に必要な助けをしなさいということです。それが敵を愛しなさいという言葉です。そこには、敵に善いことをしたので、敵が味方になってくれるだろうなどと考えてはならないということも含まれているのです。敵が渇き、飢えているとしたら、水を飲ませ、食べさせる。イエスがおっしゃっているのは、敵と味方という地上の考え方を捨てて、人間としての他者として助けなさいということです。そして、助けたことは忘れる。神さまはそのように働いておられる。それが憐れみ深いと言われる神さまのお働きなのです。神さまの敵であるわたしのために憐れみ深く関わってくださる神さまを思い、神さまのお心に従いなさいとイエスはおっしゃっているのです。
しかし、このようなところに、わたしたちが生きることができないこともイエスはご存知です。だからこそ、できないわたしたちのために、イエスは十字架を引き受けてくださった。悪に悪を返さないで、ただ十字架を引き受けてくださった。わたしたちは、愚かで、自分のことしか考えない。そんなわたしがイエスの十字架によって救われたと信じるならば、自分が情け深くない、傲慢な罪人であることを認め、ひれ伏したのです、イエスの前に。
神さまの敵であるわたしたち人間を憐れんでくださったイエスが、御前にひれ伏すあなたを包んでおられる。あなたに量り返されたのは、あなたの悪、あなたの罪ではありません。イエスのいのち、永遠のいのちが、あなたに量り返された。それは、イエスの十字架という新しい基準に従って、量り返されたいのちです。罪に対して量り返されたイエスのいのちがあなたのうちに働いています。罪深い者のうちに働くイエスのいのちに従って生きていく希望が与えられたのです。この憐れみ深い神に感謝して、共に歩んで行きましょう。神の義しい世界が、あなたを包んでいるのですから。