「道を外れて」

2025年3月2日(主の変容主日)
ルカによる福音書9章28節-36節

わたしたち人間には地上のいのちの始まりと終わりがあります。自分で始める人はいません。誰が始めるのかと言えば、神さまが始めるのです。わたしという存在を地上に生まれさせるのは神さまです。そして、地上のいのちを終わらせるのも神さまです。地上のいのちの終わりを「最期」と言います。今日の福音書にもこの「最期」という言葉がでてきます。イエスの最期、つまりイエスの死に際という意味です。この「最期」と訳されている言葉は、ギリシア語で「エクソドス」となっています。あのモーセの出エジプトのことです。そして、もう一つの意味が「出発」です。この世からあの世へと出発することだとすれば、死に際ということになるわけです。しかし、エクソドス、出エジプトはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から出発する出来事でした。だとすれば、イエスの最期というよりも、イエスの出発、イエスの出エジプトについて、モーセとエリヤと一緒に話し合っていたということになります。これは、どういうことでしょうか。

エクソドスという言葉は、エクスとホドスに分けることができます。エクスとは外のことで、ホドスとは道のことですから道から出て行くこと、道を外れることを意味しています。出エジプト記の3章で、山で羊の群を飼っていたモーセが燃える柴を見て、道を外れて見に行った出来事もこの「道を外れる」ことによって、神に見出された出来事でした。イエスの十字架の死という出来事はモーセのエクソドスのような神の出来事であるということと、それは「道を外れる」出来事だという意味が込められていると言えます。

「道を外れる」と言われると、倫理的に人の道から外れていることと、わたしたち日本人は考えるものです。ところが、聖書の中では、道を外れなければ見出されない神の真理が語られています。道に沿って歩いているのでは見出すことができないのが神の真理なのです。だとすれば、イエスの十字架も神の真理として「道を外れた」ところにあるということが語られているのです。そして、出エジプトが神の民の解放の出来事であるということと重ねられて、神の民が解放され自由を与えられることがイエスの十字架であると述べていることになります。「道を外れる」ことが神の道に入ることになるということなのです。

福音書の中では、イエスは道を外れているお方です。ナザレで受け入れられない者として立っておられた。この世に、火を投げ込むとおっしゃった。メシアに対する当時の社会一般の考え方は、平和をもたらす存在だというものでした。その平和は、イスラエルが他国の支配から解放されて、自分たちの国を打ち立てるというものでした。そのようなメシア、救い主に対する期待とは裏腹に、十字架は滅びと絶望をもたらすと思えます。ところが、そこにこそ真実の神の道があると十字架は語っています。

このようなところへと人々を導くのがイエス・キリストなのです。それゆえに、今日の聖書の終わりで雲の中からの声が言うのは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」ということでした。「これに聞け」とはイエスに聞けということですが、「イエスの事柄を聞け」という意味です。神が選んだ者の事柄、つまり、イエスの出来事、十字架が指し示している事柄を聞きなさいということです。

これに聞くならば、どうなるというのでしょうか。もちろん、エクソドスに導かれるということです。「道を外れる」ことに導かれて、一般社会の慣習から解放され、自由を生きることができるということです。このような自由は、一般社会を覆すということではなくて、一般社会に縛られることなく、自分の責任を負って生きる一人ひとりとして生きるということです。

一般社会において、わたしたちを縛っているのは、責任を負わなくても良い環境を守る一般的な意志です。誰も責任を負わなくても良い人々として生きることができる環境を守るということです。大勢の中に隠れて、道を外れる人を批判して、自分は責任を負わない大衆として生きることを求めるのがわたしたち人間です。そこに原罪を負った人間が生きています。そこから解放されるとすれば、原罪の抑圧からも解放されるということです。そのとき、わたしたちは一人ひとり責任をもって生きる自由を与えられるのです。イエスはこの自由を与えるために十字架を負ってくださる。その結果が、一人ひとりの脱出、出エジプトとなる。一人ひとりが道を外れて、それぞれの道を歩いて行く。これが自由を生きることです。

わたしが洗礼を受ける頃に見た夢があります。実は、夢か幻か分からないのです。以前にもお話ししたかも知れませんが、その夢、幻の中で、わたしは多摩川の土手の下に転がっていました。ふと見上げると、土手の上の道を整列して歩いて行くスーツ姿の一団が見えます。「あ〜、あそこに戻らなければ」とわたしは思うのです。ところが、登っても登っても滑り落ちてしまう。すると、声が聞こえてくるのです。「あなたの道はそこにある」と。「えっ!」と思って、良く見てみると、土手の上の道から転がり落ちたわたしのところまで転がり落ちた跡が道のように残っているのです。振り返ると、わたしの後ろにもその道が延びていました。そのとき、わたしはこう思いました。「そうか、これがわたしの道なのだ。あの上の道に戻らなくても良いのだ。転がり落ちたと思っているここがわたしの道なのだ。わたしの先に延びている道を歩いて行けば良いのだ。」と。そこでわたしが生きるべき指針として受け取ったことは、「道を外れる」ことは、自分の道を歩いて行くことなのだということでした。それ以来、わたしは道を外れてばかりです。

道を外れていたから、取り組むことができるものがあります。道を外れていない人は、今まで誰もしてこなかったのだから、自分がしなくても良いと考えるものです。前例がないという人もいますね。前例は、誰かが作らなければ前例とはならないのに、自分は作るつもりはないのです。道を外れていると、前の人たちのことは考えることなく、今目の前にあるなすべきことをなして行こうと思える。もちろん、その思いは神さまが起こしてくださり、実現してくださるのです。

十字架の出来事は道を外れています。一般的に見て、十字架刑に処される罪人は、一般社会の倫理から外れた道を歩いている人でした。十字架は「道を外れた」ものなのです。エルサレムという町の外に置かれている十字架に架けられたのがイエス・キリストです。このお方の人生は、すべて道を外れていた。このお方は、道の外に投げ出され、排除された人たちの傍らに立って、神の福音で包んでくださった。このお方がいたことで、道から外れてしまったと思っていた人たちが立ち上がり、自分を生きることができるようにされた。この福音を受け入れるのは、道を外れた人たちなのです。

イエス・キリストの山上の変容が語っている出エジプト、エクソドスは、一人ひとりが責任をもって、自分の道を歩いて行くために起こる神の出来事なのです。みんなと同じように生きて、お金も食べ物も心配することなく生きることができる人たちは、道の中にあって、外れることなく生きています。だから、自分を見詰めることがないのです。見詰めなくても良いのです。そのような境遇にある人には、イエスの言葉はつまらない、愚かな言葉としか思えません。しかし、貧しく、苦しみ、悲しんでいる、道を外れた人たちには生きる力として働くのです。

貧しい人は幸いとおっしゃるイエスの言葉は真実なのです。そのような人でなければ、イエスの言葉を聞くことができないからです。わたしたちここに集められている者やオンラインや週日に礼拝に参与している人たちもまた、道を外れた人たちです。神の言葉をまっすぐに聞いている人たちです。神の福音があなたを包んで、福音を生きるあなたにしてくださっている。この幸いを感謝しましょう。

今日、共にいただく聖餐を通して、わたしたちはイエスの事柄を聞くのです。イエスの十字架が語っておられる神の救いの出来事、エクソドスの言葉を聞くのです。その一人ひとりに、神の力が働きます。あなたは道を外れて、神に出会う。モーセのように神に出会い、そしてイエスのように一般的な道の外で自由を生きる。わたしたち一人ひとりが自分の道を歩いて行く力をいただくことができるのです。道を外れて、この恵みに与かるわたしも隣の人も幸いな人と、互いに祝福を送りましょう。

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