「心はどこにある」

2025年3月5日(聖灰水曜日)
マタイによる福音書6章1節-6節、16節-21節

みなさんは、心はどこにあると思いますか。心の在処を考えたことがありますか。たいてい、わたしたちは心の在処を胸の辺りだと指さします。それは心臓の場所ですね。わたしたちは心臓が心だと思っているのでしょうか。今日の福音書を読むと、心の在処は別のところのようですね。

ギリシア語では、心があるところをカルディアと言います。心そのものの働きはヌースやディアノイアという言葉が使われますが、それは理性や思考を表しています。理性を用いて考えることそのものを表す言葉が日本語で「心」と言われているわけです。日本語では心の在処を表す言葉はありません。ギリシア人は、心の在処と心の働きとを区別して考えたのでしょうね。

一般的に、心が体を動かすと考える人が多いものですが、体が心を動かしていることもあります。聖書的には、心も体も原罪に蝕まれていますので、どちらも影響し合っています。心も体もわたしたちを罪に導くと考えられています。マルティン・ルターが「キリスト者の自由について」という本の中で語っているのは、内なる魂がキリストと結ばれているとしても、体が言うことを聞くかと言えば、そう簡単には行かないということです。だからこそ、信仰を与えられた魂であろうと、信仰が体を動かすようにならなければ、罪を犯してしまうということです。この信仰が、わたしの主体として働くようになるために、信仰を鍛えるともルターは言っています。

信仰というものは見えません。見えないので、信仰を体で表すと、「あの人は信仰深い」と認めてもらえるとわたしたちは考えるものです。その考え方が、善い行為をすることによって義しい人と認められるという行為義認の考え方、行いによって義しい人だと認められるという考え方です。これが、今日のみことばで「注意しなさい」とイエスがおっしゃっていることです。

注意するということは、「予め持っている」という言葉です。予め、そのようになることを知っていて、そうならないように気をつけているということが注意することですね。このように注意することは、なかなか難しいものです。予め、そのようになると分かっていても、ことが起こると、起こっている出来事に対処しようとして、右往左往することになります。何が起こるか分からないので、予め、気をつけていても、起こったときに心が揺さぶられることにもなります。そのようなときには、注意していた心はどこかに飛んでいって、起こっている出来事に注意が向けられて、最初に注意していた心を忘れることになるのです。

わたしたちが普段の生活で判断している判断基準は目に見えることや人に認められることに基づいていますので、出来事への直接的対処の方に引きずられることになります。ということは、普段心を向けている外側の出来事が当たり前のことであって、予め心の中で注意する意識というものは普段行われていることではないということです。だから、イエスはあえて「注意していなさい」とおっしゃるのです。しかし、わたしたちは、突然の出来事に対処するとき、普段の生活で行っているような外面的な対処になってしまいます。そうならないためには、普段の心の向きがどこに向かっているかが問題になります。それで、イエスは最後にこうおっしゃっているのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と。

あなたの心の在処は、あなたが富だと考えるもののところにあるということです。みなさんは自分の富が何だと思っているでしょうか。その富を、どこに持っていると思っているでしょうか。それが、わたしがいつも心を向けているところでしょう。そこに、あなたの富があり、あなたの心の在処がある。それがどこなのか。わたしたちがキリスト者として生きる上で、これが重要なことになります。

この世で認められることがわたしの富だとわたしが考えるならば、わたしの心の在処はこの世の目に見える価値に置かれています。反対に、この世でどのように見られようとも、わたしは神さまのお心に富を見出しているという人は、この世の富を求めません。この世の富というものは、消えていくものです。ですから、消えていくものをわたしの富だと心を向けているならば、その富と一緒にわたしも消えていきます。しかし、永遠の神さまのお心がわたしの富であるならば、わたしは永遠に消えることはありません。

永遠の神さまのお心とは、イエスの十字架です。イエスの十字架がわたしの富だと信頼している人は、この世でどのように評価されようとも揺るがされることなく生きることができます。この世の富に心を向けている人は、ことが起こるたびに、この世の富を失わないように右往左往して、奔走することになります。そして、この世の富と共に消えていくのです。そのような人は、右往左往しているうちに、自分が生きてきた生き方を変えることになっても、何も感じないのです。自分の本来の心と違う方向に向かっていても違和感を感じないとすれば、本来の心を失っていることになります。

この世の富というものは、財産、地位、名誉など、見えるものです。善いことをしても、善いことをしているわたしを社会に認めてもらいたいと思っているならば、善いことに心が向いているわけではないのです。認めてもらうことに心が向いているだけです。認めてもらうために善いことをしているようなものです。そのような場合、わたしたちは善いことを自分の評価のために使っています。これが善いことを行うことで義しい人だと認めてもらうという行為義認の在り方なのです。そのような人は、すでに報いを受けていると言われています。反対に、善いことをしても、人に知られないように行っている人は、報いを天に持っているのです。その場合の報いとは、行いに対する直接的な報いではありません。見えない報いです。見えない報いを必ず与えてくださると信じることです。その報いを求めて行うということではありません。目的としての報いではなく、土台としての報いなのです。

隠れたところで見ておられる神さまが、わたしに報いを与えると言われていますが、これは地上の目に見える報いを求めない人に与えられるものです。ですから、報いを求めて行う人ではないということです。このように行う人は、イエスの十字架によって罪を赦していただいたことを受け取っているのです。だから、報いはすでにいただいているというところに立っていますので、報いを求めない。むしろ、報われていると信じるから、行うというところに立っているのです。それは、キリストがわたしのためにいのちを投げだしてくださったので、わたしも他者のために生きようとすることです。

報いを求める生き方は、結果的に神さまに信頼できない人間を作り出します。アダムとエヴァは、蛇の誘惑によって、自分が神のようになることができると思わされたのです。神を信頼することができないように蛇は二人を唆したのです。その誘惑に乗ってしまった結果、彼らは神から離れてしまいました。その同じ罪を、わたしたちは受け継いでいる。この原罪の働きが、わたし自身のうちに働いていることを知るようにと、神さまの律法が与えられているのです。

このように考えてみると、わたしの内に働いている原罪が働かないようにするために、注意していなさいとイエスはおっしゃっていることになります。しかし、先に見ましたように、わたしたちは目の前に起こってくることに対して、上手く立ち回ろうとして、原罪に陥ってしまうのです。注意していても、注意を逸らされてしまう。では、どうしたら良いのでしょうか。わたしは常に原罪に陥ってしまう罪人だと知っておくことです。知った上で、すぐに反応するのではなく、自分からは対抗しないで、相手が行うに任せることも必要でしょう。自分から行うことには、常に原罪の働きがあると注意しておくことです。

今日、それぞれの額に灰の十字架を受けますが、この十字架があなたの富であることを改めて受け取りましょう。あなたの心が十字架に向かうように、これからの四旬節のときを過ごしていきましょう。あなたはキリストの十字架の富によって、救われているのです。額に記された十字架をあなたの富として生きていくならば、あなたの心は天にあるのです。キリストの十字架を与えてくださった神さまに心を向けて歩んで行きましょう。そうすれば、あなたは揺さぶられることなく、まっすぐに神に向かって行くでしょう。あなたの心のあるところへ向かって。

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