「必然に従う」

2025年3月16日(四旬節第2主日)
ルカによる福音書13章31節-35節

みなさんは未来のことが分かると良いなと思ったことがありませんか。先に分かっていれば、悪いことを避けることができると思います。反対に、良いことはもっと良い方に向かわせられだろうと思うものです。未来のことが決まっているとは誰も思わないものです。ところが、今日イエスさまは、未来のことは決まっているとおっしゃっています。

「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」と。「ありえない」と訳されていますが、原文は「可能ではない」です。ここでイエスがおっしゃっているのは、神が可能としてはいないという意味です。預言者という存在がエルサレムの中で非業の死を遂げることは、神が可能としているから、起こるのだという意味です。それが神の必然だとイエスはおっしゃっているのです。

神さまによって可能とされていることを、人間が変えることはできないのです。それを必然と言います。「必ずそうなる」ということですから、逃げても無駄だという意味です。イエスに「エルサレムに行かないように」と助言したファリサイ派の人の言葉に対して、「いや、それは神が可能としたことだから避けることはできないのだ」とイエスは答えたのです。つまり、エルサレムで殺害されることは、神の意志だからそうなることになっているとイエスは答えたのです。

ファリサイ派の人は、イエスが死んでは困ると思っているのでしょうか。あるいは、エルサレムで殺害が起こることは困ると思っているのでしょうか。それは分かりません。しかし、その人には、エルサレムを聖なる場所として守りたいという気持ちがあるのでしょう。それで、別のところに行ってくれとイエスに助言したのではないかと思われます。悪いことが起こるだろうと予測できるときには、わたしたちはそれを避けようとします。

わたしたちは、自分が聖なる場所だと思っているところを守ろうとする気持ちが働きます。それは場所を守る気持ちであって、そこで起こることが聖なることであって欲しいという願いです。しかし、ここでイエスが答えたのは、聖なることとは神の必然、神が可能としたことなのだということです。それが殺害であろうとも、神の必然であるならば、それは聖なる出来事なのだと、イエスはおっしゃったのです。

イザヤ書6章に「聖なる種子」という言葉があります。エルサレムが破壊され、ことごとく何もなくなってしまうが、そこに切り株が残る。それが聖なる種子であるという言葉です。この言葉が語っているのは、神ヤーウェを信じない人々によって破壊されるエルサレムという出来事の中に、聖なる種子が存在しているということです。ということは、神ヤーウェを信じない人たちの行為も、聖なる種子を残す働きとなる神の必然であるという意味になります。

わたしたちは、良いことが起こるならば聖なることであると思いたい。ところが、悪しきことが起こるとしても、それもまた神の意志であるということがあるのだろうかとわたしたちは思ってしまいます。しかし、あるのです。神の意志が働かない出来事など何一つないからです。ですから、わたしたちにとって悪いことだと思えることであろうとも、神の必然によってなるということです。そして、イエスの十字架の死も神が可能とした必然によってなる聖なる出来事であるということなのです。ただし、聖なる出来事だと信じるのは、神を信じている人たちだけです。一般の人たちは聖なることは良いことだけだと思っていますので、悪いこと、汚れたことは、聖なることではないのです。神を信じている人にとっては聖なることであろうとも、一般の人たちにとっては聖なることではない。これはどういうことでしょうか。

わたしたち人間が聖なることだと考えることが聖なることではないということです。神が必然的に行っておられることが聖なることだということです。だとすれば、この世に起こっていることはすべて聖なることになってしまいます。実はそうなのです。アダムとエヴァの堕罪も、聖なることなのでしょうか。そうなのです。堕罪も悪も、聖なること。しかし、それは神の必然によってそうなっていることを信じる人にとって、聖なることなのです。

たいていの人たちは、キリスト者と言いながら、自分にとって良いことが聖なることだと考えがちです。イエスを殺害する人たちも、イエスの殺害は聖なることを守るために行うことだと考えています。一方、イエスに危機回避を進言したファリサイ派の人は、聖なる場所で殺害という汚れたことが行われて欲しくないという気持ちでしょう。その人は、殺害は聖なることではないと思っているわけです。ところが、イエスはすべてが聖なることであると言っているのです。預言者の殺害も神が可能とした聖なる出来事であるとイエスはおっしゃっているのです。

人間たちとイエスとの違いを生み出しているのは、アダムとエヴァが食べてしまった「善悪の知識の木」の働きです。「善悪の知識の木」を食べた結果、自分たちが善悪を判断できると思い込むようになったのが、わたしたち人間なのです。その結果、神さまが造った世界を、善と悪に分けることになりました。神さまが造った世界は「極めて良い」と言われた世界だったのです。それにも関わらず、わたしたち人間が、自分にとっての善と悪に分けることになった。それこそが、原罪の働きなのです。

この原罪が働くことによって、「極めて良い」神さまの世界が、善と悪に分けられる。そうすると、人間が神さまの世界を分けてしまうことになる。神さまの世界を善と悪に分けて、判断するのが人間だということになるのです。これが、蛇が唆した「神のようになる」ということでした。その結果、わたしたちが自分にとって善であると思うことを聖なることとした反面、自分にとって都合の悪いことを神の働きではないとすることになったのです。イエスに助言したファリサイ派の人は、この考え方に陥っていたのです。イエスを殺害する人たちも同じところに堕ちていたのです。この考え方に対して、イエスは、そうではないのだと答えた。

「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」とイエスがおっしゃったのは、如何なることであろうとも神の意志であると受け入れるまでは、わたしを見ることはないということでしょう。それはまた、イエスが十字架に架けられることが神の意志であり、神の必然であると受け入れるまでは、あなたは神を見ることはないという意味でもあるのです。

起こった出来事としては、イエスを殺害したい人たちがイエスを十字架に架けたということです。イエスを信じるわたしたち後のキリスト者から見れば、イエスの十字架は神の出来事ではなく、当時の人間の罪の出来事です。起こった出来事には、それを起こした人間の罪が働いているとわたしたちは考えるものです。確かに人間の罪がイエスを殺害したのです。ところが、その人間の罪を促したのが神の言葉であるということは誰も考えないものです。

マルティン・ルターは、著書「奴隷的意志について」の中で、神の意志の絶対的必然性によってすべてのことはなるという自分の信仰の立場をこのように説明しています。出エジプトの際に、十の災いを下した神ヤーウェの働きによって、ファラオはイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許可するのですが、それを九回取り消しました。その際、聖書はこう語っています。「主がファラオの心を頑なにしたので」ファラオは約束した言葉を取り消したのだと。この「主がファラオの心を頑なにした」ということは、神の働きを述べているのですが、神はご自身に逆らうこと、つまり罪を行わせるのだろうかという疑問が起こるだろうと、ルターは言っています。しかし、これは神の言葉の必然なのだと、ルターは言うのです。つまり、神の言葉を聞いて従うことが起こる反面、神の言葉を聞いて逆らうことも起こるのです。どちらも神の言葉によって起こるのだから、どちらであろうとも、神がそうなさったということなのだとルターは答えています。ルターが言う通りです。

殺害を予告されているエルサレムに行かないようにと助言したファリサイ派の人の言葉にイエスが従わないのは、聖なることは神が可能としておられるから起こるというところにイエスが立っているからです。だからこそ、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、可能ではない」とイエスはおっしゃるのです。これが神の必然なのだと、おっしゃるのです。

わたしたちが考える善悪を超えたところに、神の必然が起こる。その必然に従うのがわたしたちの主イエス。わたしたちの目に良いこと、聖なることに思えることが聖なることではないのです。神さまの必然こそが聖なること。神が可能となさったことを人間は避けることはできない。この神の必然に従う一人ひとりであるようにと、わたしたちに与えられるイエス・キリストの体と血を感謝していただきましょう。神のご意志に従う道を歩き続けるために。

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