「純粋に生きる」

2023年7月2日(聖霊降臨後第5主日)
マタイによる福音書10章40節-42節

受け入れるということは歓迎することですね。歓んで迎えることが歓迎です。今日の日課で使われている「受け入れる」というギリシア語にも歓迎するという意味があります。受け入れるということは、仕方なく受け入れることもあるかも知れませんが、それは受け入れるとは言いませんよね。受け入れるとは基本的には歓んで迎えることだと言えます。この歓んで迎えることで、迎え入れた相手だけではなく、その相手が喜んで迎え入れている人をも迎え入れることになるとイエスはおっしゃっています。さらに、その人を派遣したお方も歓んで迎え入れていることになるともイエスはおっしゃっています。これは、歓迎しないことにおいても、同じことになります。歓迎するにしても、歓迎しないにしても、目の前にいるその人だけではなく、その人が生きている世界をそのまま受け入れることや受け入れないことになるとイエスはおっしゃっているのです。

人や出来事を受け入れるということは、同じ世界に生きているから受け入れるという側面と、新たな世界を受け入れるという側面がありますよね。新たな世界は知らない世界です。知らない世界なのにどうして受け入れることになるのでしょうか?それは直感だと言えるでしょう。今まで知らなかった世界であろうとも、直感的に同じ世界に属しているものだと感じ取って、受け入れるということです。この直感というのは、人との出会いや出来事との遭遇にも働きます。その人のすべてを知っていなくても、その人の行動からその人の生きている世界を直感することがあります。それは、聖書的には啓示と言われるものに近いでしょう。

啓示というのは、今まで覆われていて見えなかったものが覆いを取り除かれて見えるようになることですから、ある人に出会って、覆いが取り除かれることも起こるわけです。それが新しい世界に開かれることでもあります。その人に出会わなければ、覆われたままであった世界が開いたということです。同じ世界に生きていることを感じる人だからこそ、開かれることを受け入れることができるということです。そう考えてみると、わたしたちが直感だと思ったり、啓示だと思ったりするとしても、そこでは同じ世界観が前提になっているわけです。その同じ世界観というものは、聖書的な世界観と人間的な一般的世界観があると言えますが、その両者のうちどちらに生きているかによって、受け入れることと受け入れないことが起こると言えます。わたしたちが生きている世界観が、聖書的であれば聖書的世界観を受け入れるでしょう。人間的世界観であれば人間的世界観を受け入れるでしょう。その反対は受け入れないことになります。こうして、その人が生きている世界観の違いが受け入れるか受け入れないかということに関わってくるわけです。「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」とイエスがおっしゃっている通りです。

イエスが語る言葉は、イエスの世界観の言葉です。イエスが生きておられる世界から語られている言葉です。イエスの言葉を聞いて、受け入れる人は、もともとイエスと同じ世界に生きている人だということになります。もちろん、その人も生まれながらには、人間的世界観の中に放り込まれます。しかし、違和感を覚えながら生きている。そして、イエスに出会って、「あ、そうだ、この世界だったのだ」ということを感じることが起こる。その人は、イエスに出会うことによって、今まで自分が生きていて不自由で、不安で、落ち着かない世界で生きざるを得なかったことへの答えを見出したと言えるでしょう。そして、今まで知らなかったけれど、このような世界があったのだと気づくのです。そして、イエスに従って行く道を歩み始める。これが、エレミヤやパウロが言う、「母の胎にあるときから、選び分けられていた」ということなのです。わたしたちキリスト者は、母の胎にあるときからキリスト者としての世界を生きるようにされていた。キリスト者としての世界に生まれていた。その世界を素直に認めて生きることが「純粋に生きる」ということです。

今日の日課で「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とイエスがおっしゃる言葉がそれを表しています。「わたしの弟子だという理由で」と訳されている原文は、「弟子の名へ」となっています。また、「預言者を預言者として受け入れる」と訳されている言葉も「預言者の名へと受け入れる」となっています。先ほど言いました同じ世界観を表すのが「名」というものなのです。

「名は体を表す」という日本語がありますが、「名」というものがその人自身を表しているという意味ですね。「名」というものが、聖書で使われる場合には、その人が生きている世界すべてを表すのです。「弟子の名へと受け入れる」という原文に従えば、小さな人が「イエスの弟子である」というだけではなく、水を与える人が「イエスの弟子である」ということも含んでいるのです。つまり、わたしはイエスの弟子であるから、水を与えようと思うことと、この小さな人はイエスの弟子であるから水を与えようと思うことの二つの側面があると言えます。しかし、後者の場合、その人がイエスの弟子ではなかったならば与えないということになるわけですから、イエスが求めておられるのは前者だと言えます。自分自身がイエスの弟子であるということにおいて、水を与えるということです。その場合、自分がイエスの弟子であるという認識を持つことが「弟子の名の中へ」入っている状態を表しているわけです。「イエスの弟子」という「名」を持っているのはキリスト者のことですから、キリスト者であるという世界に生きているがゆえに、水を与えることになるのです。そのとき、名に表されているイエスと同じ世界を生きているならば、当然水を与えることになるとイエスはおっしゃっているのです。

こう考えてみれば、わたしたちがキリスト者であるがゆえに、困っている人を助けようとすることは、それが善いことだからとか、誉められることだからというわけではないことになります。むしろ、善いこととして誉められることがなくとも、イエスと同じ世界に生きていることに基づいて、水を与えるのです。たった一杯の冷たい水を与えたところで、誰も誉めたりしないでしょう。誰も善いことをしたと評価してくれないでしょう。それでも、わたしはイエスの弟子の名の中へと入っているから、また生きる世界をイエスと共有しているから、与える。それはイエスと同じ世界を生きることの必然的な結果なのです。このような生き方をすることが「純粋に生きる」ということでもあります。

「純粋さ」というのは、混じり気がないことです。まっすぐなことです。混じり気がないということは、純粋に神に従って生きるということです。人間的思考を捨てて、自分の思惑も捨てて、ただイエスに従うということです。それが「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」とイエスがおっしゃることです。イエスの十字架が示している世界に純粋に生きなさいということです。

十字架の世界観は、ルターが言うように、神の意志の絶対的必然性によってすべてはなるという世界観ですから、人間的な思惑も計画も通用しない世界です。そのような世界では、人間の思いは悪です。創世記8章21節で神がおっしゃるように、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ことを知っている世界観です。自分自身の思いは罪深いと弁えて生きている人は、罪深い人間でありながら、神の世界に生きようとしていると言えます。

みなさんは、母の胎にあるときから、純粋に生きる世界に選び分けられているのです。イエスの弟子の名の世界へと招き入れられた存在なのです。その名の中で、イエスと共に生きるために、神は聖餐を設定してくださいました。イエスの体と血に与って、あなたが純粋に生きる者として保たれるようにと、イエスはご自身をあなたに与えてくださいます。感謝して、いただき、イエスに従って生きて行きましょう。あなたはイエスと同じ世界に生きる人なのです。

祈ります。

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