2024年6月23日(聖霊降臨後第5主日)
マルコによる福音書4章35節-41節
「静まれ。黙れ。」とイエスは、風に戒め、海に言ったと記されています。このイエスの言葉は、風と海を叱ったことです。叱るということは、行ってはならないことを行っている存在に向かって、非難し、とがめるということです。風と海が何か悪いことをしていたのでしょうか。風は風として吹いているだけでしょう。大風になることもあります。それは悪を行っているわけではありません。海の方は、大風に吹かれて荒れてしまうこともあります。風も海も自然にそうなっているだけであって、叱られることはないと思えます。どうして、イエスは叱るのでしょうか。
叱られた風は止み、大凪が生じたと記されています。叱られて止む風は、やはり悪いことをしていたから止めたのでしょうか。大凪というのは、舟にしてみれば、動かないことになりますので、大凪が良いことだとも言えません。むしろ、波があり、水が動いている方が良さそうです。ただし、自分たちが向かいたいと考えている方向に向かって波が起こり、風が吹いているならば良いのですが、逆風であれば困りますね。
風というものは思うように制御できません。風を制御できる機械もありませんね。風は思いのままに吹いていると、ヨハネ福音書でイエスがおっしゃる言葉の通り、風は風の吹くように吹いていくのです。しかし、風を制御するお方がいる。それがイエスであり、神なのです。人間である誰にも制御できないものを制御できるとすれば、神以外にはおられません。この海の上で、イエスは神のように、風と波を制御したというのです。それで、弟子たちは大いなる恐れを恐れたと言われています。そして、互いに言うのです。「この方は誰として存在しているのか。何故なら、風も海も彼に聴き従うから。」と。
弟子たちは、イエスが人間であるという前提でこう語り合っているのです。人間なのに、神のようにすべてを制御しておられるこのお方は、誰として存在しているのだろうかと考えたのです。この「誰か」という問いの答えとしては「この方は神である」が相応しいという思いが弟子たちの心の奥にはあるのでしょう。しかし、目の前におられるのは人間のイエスだと思っていますので、「誰か」としか言えないということです。
弟子たちが持っている前提、イエスは自分たちと同じ人間であるという前提。ここから離れることができないために、弟子たちは全面的にイエスを神として信じることができないということです。それで、イエスは弟子たちに言うわけです。「いまだ、あなたがたは持っていないのか、信仰を」と。いまだ、イエスを信じ切れていない弟子たちを嘆いている言葉でしょう。しかし、その前にこうも言っています。「何故、怖じ気づく者たちとして、あなたがたは存在しているのか。」と。
怖じ気づくということは、不安に翻弄されて、足場が固まらないということです。ですから、大風が吹いて、波が舟を満たしていくと恐くなり、右往左往していたわけです。これは人間として普通のことです。誰でも、このような場合には怖じ気づくでしょう。それなのに、イエスは舟の中で寝ているのです。この方がおかしい。普通の人間ではないと誰もが思うでしょうね。それで弟子たちは「先生、あなたには関係ないのですか、わたしたちが滅びることが。」とイエスに言うのです。
この弟子たちの言葉は、大変なときに寝ているイエスを責めているような言葉です。弟子たちにすれば、先生なのだから何とかしてくれなければという思いがあったのでしょうね。しかし、自分たちは漁師なのです。イエスは大工なのです。自分たちが何とかしなければならない立場ではないかと思えます。それなのに、イエスが寝ていることを責めるような言葉を言う。イエスを起こしてまで、そう言うのです。これは、責任を押しつけているようでもあります。
人間は、自分ではどうにもならないことに出会うと、誰かに責任を押しつけたくなるものです。漁師である自分たちにもどうにもならないことなのに、自分たちの先生なのだから何とかすべきだと言うわけです。これはちょっと無責任な押しつけとしか言えませんね。彼らがイエスを責めるということは、このような状態に陥ったのは、イエスが「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃって船出したという前提があるからでしょう。イエスの命令に従って船出したのだから、わたしたちを救う責任があるとでも考えているようです。彼ら自身もイエスに同意して船出したにも関わらず、危機に陥ると途端に責任は言い出しっぺのイエスにあると言うわけです。人間は、誰かに責任を負わせたいのです。しかし、誰かが責任を負ったとしても、それで救われるわけではありません。イエスが責任を負っても、舟が沈んでしまうことは起こるわけです。こんな場合に、責任を押しつけ合っても何もならない。それでも、弟子たちは責任を押しつけたい。それで、イエスを起こしたのです。
弟子たちの定まらない心。不安な心。誰かに責任を負わせようとする心。それが不信仰な心です。しかし、ここで、弟子たちみんなが神に祈っていましたということになれば良かったのでしょうか。いえ、実は弟子たちは神に祈っているのです。イエスという神に祈っているのです。彼らは自覚してはいないでしょうが、イエスを起こし、「わたしたちが滅びても、あなたには関係ないのですか」と言う言葉によって、彼らは神に祈っているのです。イエスに祈っているのです。そのような弟子たちの声を聞いて、イエスは言うのです。「静まれ、黙れ」と。もちろん、海に言った言葉だと記されています。しかし、海に、風に翻弄されている弟子たちの騒ぎ立つ心、波が次第に高くなる弟子たちの心、その風と波に向かってイエスは「静まれ、黙れ」とおっしゃったのではないでしょうか。
大風が吹き、波が荒れている舟の中で、大声でイエスは叫んだのです。「静まれ。黙れ。」と。それが風と海に向かって言われた言葉であろうとも、弟子たちも聞いているのです。聞いている弟子たちの心がイエスの言葉によって静まったのです。黙ったのです。風吹き荒れ、波高き弟子たちの心が静まり、沈黙したのです。それで、大いなる恐れが彼らの心を満たしたのです。最終的に、彼らはこう言っています。「風も海も聴き従う、彼に」と。つまり、信仰とは彼に聴き従うことだと述べているわけです。
弟子たちは、聴き従う信仰を問われたのです。イエスによって問われたのです。「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃったイエスは、弟子たちの聴き従う信仰を問うていたのです。聴き従うとは、神の前に静まって、沈黙する信仰なのだということを弟子たちに教えるために、イエスは彼らを舟に乗せ、向こう岸へと向かったのです。
違う場所で、違うことを始めるために、向こう岸へ向かったイエスたち一行。今まで通りに行かないことに向かって、出発したイエスたち一行。漁師である弟子たちさえも、どうにもならない状況にうろたえることになったこの船出。しかし、それによって、弟子たちは信仰とは何かを教えられた。自分たちの危機を通して、教えられた。イエスは、このようにして弟子たちを教え導いておられるのです。
信仰とは、自らのすべてを神の中へと投げ入れること。信仰とは、語られた神の言葉の中に身を堅くすること。信仰とは、神の言葉に聴き従うこと。信仰とは、イエスが先導する舟に乗せられること。先導するイエスに信頼して、舟に乗り込むこと。その舟の中で、わたしたちは信仰の在り方を教えていただく。イエスのように、嵐の中、静まって、寝ている信仰を教えていただける。静まって、沈黙して、寝ていることができるほどに、神に信頼する魂は、立つべきところに立っている。揺るがされることなく、しっかりと立っている。そのような信仰に導くために、イエスは弟子たちを舟に乗せた。このイエスに祈る弟子たちは、自らの至らなさを叱られ、とがめられ、新たな地に立つことができた。イエスの言葉は厳しくとも、叱責であろうとも、わたしたちを新たな地に立つようにしてくださる言葉なのです。イエスの言葉だけがわたしたちを信仰に繋ぎ止める言葉なのです。わたしたちは、このようなイエスの言葉を待っているのです。あなたのうちに聞こえてくるイエスの言葉を待っている。あなたの魂を叱り、励ます言葉を聞き続けましょう。そのとき、あなたは新たな地に立っていることでしょう。
祈ります。