2024年6月30日(聖霊降臨後第6主日)
マルコによる福音書5章21節-43節
人の感覚というのはまちまちです。同じ時間であっても、長く感じるときと短く感じるときとあります。今日の福音書に出てくるのは「十二年」という同じ歳月を過ごした二人の女性です。一人は長血が治らずに過ごした十二年。一人は十二歳で死んでしまった十二年。十二年前に病気になった女性と、十二年前にこの世に生まれた女性。同じ十二年を振り返ってみるとき、長血の苦しみを十二年間耐えるということは長いと感じます。一方で、十二歳で死ぬなんて、何と儚いことかと思います。同じ十二年なのに、二人の女性にとっては、また周りの人にとっては長く感じられたり、短く感じられたりするのです。
考えてみれば、苦しみに耐え続ける十二年という歳月は長いものです。長血の女性は十二年もの間、希望を捨てずに良く医者にかかり続けたなあと思います。彼女には希望とお金があったのかも知れません。しかし、それも尽きた。それが彼女の十二年目です。すべてが尽きたとき、彼女がすがれるのは噂に聞くイエスだけだった。それで、彼女はイエスの服に触れれば癒やされると信じた。いや、信じるしかなかった。最後の希望だったからです。そして、彼女は癒やされた。すべてが尽きたとき、虚しい十二年から救われたのです。どれだけのお金があっても、どれだけの医者にかかろうとも、何の益もなく虚しく費やされていったお金と月日。その果てに、何もなくなった彼女は、何もなくなった存在として、イエスにすがった。彼女にはイエスしかいなかった。その一途にすがりつく心こそ、真実の信仰だったのです。
イエスはその信仰をご自身の体で認識して、彼女にその信仰を告白させた。彼女は自分に起こったことを告白することによって、それが彼女に与えられた信仰の働きだったことを確認したのです。彼女が告白した信仰をイエスは認め、しっかりと守るように彼女に勧めました。彼女の苦しみの十二年は信仰へと導かれるための十二年となったのです。この十二年を振り返るとき、彼女は十二年の長い苦しみが自分自身がすべてを失う十二年であったことを考えたでしょう。すべてを失ってしまうまでに十二年かかったと。そこに至ったとき、イエスの噂を耳にした彼女が救われたのです。それは、神さまが備えた時間だったと言えるでしょう。この信仰的振り返りを一般化することはできませんが、この女性にとっては神が働き続けた十二年として彼女の人生の中に位置づけられたことでしょう。
一方、その女性のことで時間をかけている間に、ヤイロの娘は死んでしまいました。もはや、イエスに来ていただく必要がなくなったと、下僕が伝えに来たのです。ヤイロも娘も、希望がなくなった。そこに至って、イエスはヤイロに言うのです。「恐れるな。ただ信ぜよ。」と。ヤイロは、イエスの言葉に従うしかない。彼が信じているかどうかは分からない。しかし、彼には何もできない。イエスがおっしゃるように、ただ信じるしかない。ヤイロは長血の女の出来事が語っている信仰の不思議さを知っています。ヤイロもそこにいて、女性の長い苦しみの経験を聞いたのです。長い苦しみから解放された信仰に至る告白を聞いたのです。すがるもののない哀れさの淵に取り残された女性が、最後にすがったイエスの服。そして、癒された彼女のことを知ったのです。ヤイロは、女性の信仰の証、神の導きの不思議さを受け取り、ただ信じるところに立たされたのです。そこに至って、娘は起こされた。そして、歩き回った。彼女を起こした後、食べ物を与えるようにとイエスは勧めました。彼女は十二歳だった、と記されています。
二人の女性は同じ十二年を過ごしたのです。ひとりは苦難の中で十二年を過ごした。もうひとりは、若さの喜びの中で十二年を過ごした。そして、死んだ。どちらが良い十二年だったでしょうか。どちらが十二年をより良く生きたでしょうか。いえ、苦難の中であろうと、若さの喜びの中であろうと、二人とも十二年目のいのちを回復されたのです。十二年間の病から回復されたひとりと、十二年目の病から回復されたひとり。二人にとっては違う十二年の病。どちらも、十二年目にすべてを失った。そして、イエスだけが最後の希望として彼女たちの前に現れた。二人の十二年は、長く感じる十二年と短く感じる十二年ですが、イエスに出会うことによって回復され、継続される十二年となったのです。しかし、そのためにはすべてが失われること、希望が失われることが必要であったとも言えます。もちろん、すべてを失えば救われると一般化することはできません。しかし、わたしたち人間は自分が何とかできると思える力が残っている限り、自分の力に頼るのです。自分の力がなくなっても、周りに助けてくれる人がいる限り、人に頼るのです。それらの人の助けもなくなったとき、ようやく神にすがるのです。
わたしたち人間が原罪を宿しているということは、このようなことなのです。最後の最後まで、自分や周りの人間の力に頼り続けるのが人間の原罪なのです。それらの希望がすべて失われるに至って、ようやく神にすがる。「苦しいときの神頼み」ですね。信仰が起こされるのは、苦しいときです。希望が失われたときです。もはや人間の力ではどうにもならないところに立たされたときです。そこに至らなければ、わたしたちは信じようとはしないのです。いえ、信仰を受け取ることができないのです。
見えもしない神にすがりつく信仰など恥ずかしいと誰もが考える。長血の女性も、十二年間医者にかかり尽くしたわけです。神に祈り尽くしたわけではなかった。医者にかけるお金がなくなって、ようやくイエスの服にすがりついた。そのような恥ずかしいことを人に知られたくないので、群衆の中に隠れて、イエスの服に触れたのです。すがりつく信仰など哀れだと思っていたのかも知れません。哀れな人間にはなりたくないと思っていたのかも知れません。それでも、彼女はついにすがりつくほかないところに立たされたのです。そこに神のお働きがあったと言えます。
ヤイロにしても、お金をかけて、医者に診せてきたでしょうが、もはや手の尽くしようが無いことを医者から宣言され、イエスの許にやってきたのです。しかし、家に向かう途中で娘は死んでしまった。長血の女性のことで手間取ったからと思ったかも知れません。しかし、長血の女性の苦しみの十二年間のことを知ったヤイロは、イエスがおっしゃる通りに、ただ信じるところに立つことになったのです。もはや、彼もイエスにすがることしかできなくなったのです。
二人の女性は、すべての希望が絶たれたとき、最後にすがるお方がそこにいたのです。そのお方を彼らの前に置いてくださったのは神さまです。二人が救われたのは神さまの導きです。その導きに素直に従うことができるように、神さまは二人の女性からすべてを奪ったとも言えます。そうでなければ、彼らはイエスだけにすがるところには至らなかったからです。二人の十二年は信仰に至る十二年だった。それぞれにすべての人間的な力が剥ぎ取られるための十二年だった。人間的な希望も力も無くなってしまうまで、神さまは放っておいたのでしょうか。いえ、神さまの恵みは彼らの前に同じように備えられていたのです。その神さまの恵みに目が開かれるためには、彼らがすがりついているこの世の恵み、この世の力が剥ぎ取られてしまわなければならなかったのです。そうならなければ、彼らはイエスのところに来ることはなかったのです。イエスにすがることはなかったのです。
信仰に導かれる十二年は、剥ぎ取られる十二年だった。すべてを剥ぎ取られることを通して、神さまだけに信頼するところに導かれる十二年だった。その彼女たちの十二年の大元にあるはイエスの十字架なのです。すべてを剥ぎ取られてしまった十字架のイエスが神の可能とする力によって生きておられる復活の出来事。それは今日の二人の上にも起こった神さまの出来事なのです。そして、わたしたちにも起こった神さまの信仰の御業なのです。
十字架のイエスの御力は、イエスの体と血を通して、わたしたちに与えられます。イエスご自身の十字架のいのちがわたしたちのうちに与えられます。ただ信じる信仰を通してのみ生きるようにと、わたしたちは召されているのです。ただ信じるとき、イエスの言葉によって生きることになる。イエスの言葉の力によって救われたことを証する一人ひとりでありますように。
祈ります。