2025年4月6日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書12章1節-8節
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と最後にイエスはおっしゃっています。この言葉は、原文では目的語である言葉が主語として訳されています。この言葉の本来の主語は「あなたがた」です。そして「一緒にいる」と訳されている言葉は「自分たちと共に持っている」という言葉が使われています。原文通りに訳すとこうなります。「貧しい人たちを、いつも、あなたがたは持っている、自分たちと共に。しかし、わたしを、いつも、あなたがたは持っていない。」。貧しい人たちやイエスを持っているのは、「あなたがた」だとおっしゃっています。この「持っている」という言葉が表しているのは、所有しているということです。イエスは所有される対象ではないということです。一方、貧しい人たちは、あなたがた自身だという意味でしょう。
イエスは弟子たちに「あなたがたは貧しい人たちと言うけれど、あなたがた自身が貧しい人たちなのだ。」とおっしゃっているのでしょう。自らの貧しさの自覚は、単にお金がないことではなく、マリアの行為を批判するユダのように、魂の貧しさです。魂が貧しい人は、所有を考えるということです。
魂が貧しいということは、貧相な魂であるということです。貧相な魂というのは、目の前のお金を所有することを考えるということです。ユダが、一リトラの香油を無駄遣いしていると、マリアを批判したように、高価な香油を使うときに、チョボチョボと使ってしまう貧相さでもあるでしょう。これをイエスは「貧しい人たちを、自分たち自身と共に、あなたがたは持っている。」とおっしゃったのです。むしろ、マリアの方が豊かであるということです。彼女は所有を考えていないからです。
こう考えてみますと、お金に汚い人は貧しい魂。お金を無駄遣いしていると批判されているマリアは豊かな魂。ということになります。この豊かさは、どこから来るのでしょうか。
ラザロは11章でイエスによって墓から呼び出されて、出てきた人です。その姉妹マルタとマリアもその出来事を見ていた。そして、マルタは、イエスの言葉を聞いたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というイエスの言葉をマルタは聞いた。マリアは泣いているだけでした。しかし、ラザロの復活の喜びを経験した。マルタから聞いたイエスの言葉によって、マリアはイエスを信じる者とされた。そして、思わず、香油一リトラをイエスの足にかけてしまった。マリアが、そのような行為をした理由は述べられていません。そして、ユダがマリアの行為を批判した。マリアの魂が豊かだったとしても、この行為の意味は別にあると、イエスはおっしゃっているのです。「わたしの葬りの準備へと」マリアの行為は行われたと、イエスはおっしゃっています。
イエスの葬りの準備へと、マリアの行為は備えられていたということです。それは、神さまが備えておられたという意味です。そして、マリアは神さまの思いに促されて、香油一リトラをもイエスの足にかけてしまった。意味の分からない行為だと、批判されていたマリアの行為を、イエスは「わたしの葬りの準備」だとおっしゃったのですが、それは神さまがマリアに与えた思いを守るイエスの言葉だったと言えます。
わたしたちが何かを行うとき、わたしたちは何かのために行っていると意識しているものです。「あの人のために」とか「彼らのために」とか考えている。しかし、思わず行ってしまうということもあります。そのとき、わたしたちは意識せずに行っているものです。意識しないということは、わたしのうちで何かが働いて、行わせておられるということです。その何かとは、神さまの思いでしょう。わたしたちが、意識せずに行うことは、行わざるを得ないように突き動かされる行為だということです。その突き動かす主体は、神さまです。なぜなら、わたしは意識していないからです。
マリアの行為を、意識的なものではなく無駄なことをしてしまったと断定したユダは、常に自分の意識、自分の思いに従って、物事を判断していたと言えるでしょう。それで、マリアの行為が理解できなかった。
この葬りの準備が意味しているのは、死んだ者へ注ぎかけられる香油を先取りしているということです。先取りされた行為は、そのときには理解できなくても、後になって「そうだったのか」と理解することになる。そのような行為をマリアは行わせられたのです。マリアのうちに働いていたのは、神さまの思いなのです。その神の思いを守るのが、イエスです。イエスご自身が、神の思い、神のご意志に従って十字架を負うのですから、同じ思いに動かされているマリアのことを理解した。そして、イエスが葬りの準備として位置づけてくださったことによって、マリアは自分のうちに働く神の思いが自分を動かしたのだと理解した。
わたしたちが行うことは、理由があって行っているものです。その理由は、わたしが理解している理由ですから、わたしの思いなのです。どうして、こんなことをしたのか分からないという場合、わたしの思いではなく、神の思いに促されている。反対に、ユダは自分のうちに働いていた悪魔の思いに促されて、マリアを批判したと言えるでしょう。悪魔の思いに促されているとすれば、自分の思いを実現しようとしているということでもあります。自分がすべてを支配しておきたいという思いです。そうなると、自分の思いに従っているわけですから、自分で理由付けを考えることになります。一方、マリアは自分で理由付けを考えてはいません。自分でも良く分からないままです。そして、イエスがその理由を教えてくださった。
さて、イエスがユダに向かって言う言葉には、もう一つ不思議なことが述べられています。「彼女を手放しなさい、わたしの葬りの準備へと、彼女がそれを守るために」が原文なのですが、ユダはマリアをしっかりつかんでいるということです。そして、手放すことによって、マリアが「それ」を守ることができる。しかも「それ」は「葬りの準備へ」向けて備えられているものだということです。この「それ」とは香油のことのように思えますが、神さまの思いのことではないかと思えます。イエスを葬るための備えとして、マリアのうちに働いている神さまの思いをマリアが守るために、マリアを手放して、神さまのご支配に委ねなさいという意味でしょう。そうであれば、マリアを縛ろうとしているこの世の思いから、解放して、神さまの思いへと委ねなさいとユダに促したことになります。
わたしたちの思いが、自分の思いなのか、神さまの思いなのかを、わたしたちは判断できないと思ってしまいます。しかし、思いを強く持っているとすれば、それはわたしの思いでしょう。一方で、わたしがどうしてそのようなことを行ったのか分からないという場合には、わたしの思いではなく、神さまの思いが動かしているということです。そして、その行為は、その人が誇ることなどない行為となるのです。
わたしの思いを強く持っている人は、どうしても自分の思いを神さまの思いだと考えたいものです。しかし、自分が持っていると思っているものはやはり自分の思いなのです。それがユダの思いです。マリアの思いは、自分が持っているという意識のない思いですから、神さまの思いです。
その神さまの思いに促されて、わたしたちが生きることができるために、イエスは十字架を負ってくださった。イエスに十字架を引き受けるように働いたのは、神さまの思いです。自分の強い思いを捨てること、それがマリアを手放せとおっしゃるイエスの心なのではないでしょうか。
わたしたちが、自分の思いを手放して、神さまの思いに促される生き方ができるように、イエスは十字架を負ってくださった。そこに神に栄光を帰すイエスの心がある。今日、共にいただく聖餐は、このイエスの心がわたしのうちに入って、働いてくださる神の恵みです。感謝していただき、イエスの心と一つとされて、生きて行きましょう。